Last day

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02.キミも知らない景色 翌朝、ソフィアは四時に、俺とウヅキは四時半に起床して支度を済ませた。旅行は楽しいが確実に疲れが蓄積されていっているのが分かり、短い睡眠時間で早朝に起きるのはかなり苦痛だった。それでも誰一人文句を言わなかったのは、これが最終日だからという終わりに対する寂しさと、ジャックが何を見せてくれるのかという期待があったからだ。 五時に部屋を出てロビーに足を運ぶと、車椅子に腰掛けて噴水の傍に佇むジャックの姿を見つけた。彼に声をかけるより先に、俺は受付に立っているフロントマンに七時から予約している朝食をキャンセルしてほしいという旨を伝えた。フロントマンはレストランの方に連絡を入れておくと了承し、お礼にチップを渡してジャックの下へと歩いた。俺とフロントマンとの会話が聞こえていたようで、挨拶を交わすと、目尻を下げ「ごめん、朝ごはん食べられないね」と謝った。 俺たちは「気にしないでくれ」と首を横に振った。 『ヤング・レター』の俺達には勿体ないほどの高級料理は三日間十分味わったし、何よりも自分たちにとっては朝食よりもこの子との約束の方が大切だった。 「それで、こんな朝早くにどこ行くんだ?」 「朝日を見に行くんだよ」 「おいおい、まだ一時間以上もあるんだぜ!どこまで連れてくつもりなんだ」 こんな朝っぱらから一時間も歩かせるなんて、まっぴらごめんだ!といった言い回しと所作を見せたウヅキに、少年はまるでいたずらに成功した時のような笑みを浮かべて見せた。いったいどこに行こうとしているのか、予想がついている俺は無意識に口の端を吊り上げていた。 「海の上だよ」 それだけ教えたジャックはハンドリムを握り、車椅子を回転させて、エレベーターの方向へ進みだした。きょとんとして顔を見合わせたウヅキとソフィアに「行こう」と俺は促すと、早足で少年の後を追った。 朝も五時を過ぎたばかりの時間は涼しく、照り付ける太陽もないおかげでゆったりと早朝の景色を愉しみながら、一昨日に歩いた道のりを進むことが出来た。船着き場に向かう間ソフィアはずっと写真を撮っていて、ウヅキはジャックと他愛もない会話を交わしていた。ただ黙って車椅子を押しながら、俺は物思いに耽っていた。 これで最後。今日が最終日だ。俺たちは旅行を終えて、家に帰っても今まで通りに居られるのだろうか?ウヅキが引っ越しするのはすぐではないにしても、必ずやって来るものとして昨晩知らされたのだ。今まで通りには居られない気がした。むしろソフィアは俺に対する感情が、ウヅキは俺たちに対する想いが大きく変化したに違いない。変わらない方がいいのではなく、もう変わるべき時が来ているのかもしれない。幼馴染とは別に、俺だけの事柄で大きな変化が必要ではないだろうか。まるで一人道端に置いてけぼりをくらった惨めさだ。 「クライドおじさん!」 悶々とこれから先の未来を思案していると、ジャックが声を上げて船着き場に立つ一人の中年の男性に手を振った。歳は五十代後半といった感じで、白いカッターシャツを紺のジーンズの中に入れていた。クライドは幼い声に気が付き、軽く片手を上げて応えた。顔には年相応の皺が刻まれ、肌は随分と日焼けしていた。 「よう、坊主。久しぶりだな」 ぶっきらぼうな挨拶を済ませたクライドは、次に俺へと顔を向け、ソフィアとウヅキに視線を順に転じていった。全員の顔を見回すと鼻を鳴らし、腰に手を付いた。 「野郎二人は金を払ってもらおうか。一人百ドルだ」 金を渡せと手を差し出した相手に「百ドル!?」と俺は素っ頓狂な声を洩らした。 「おじさん、そうは言わずに俺らもタダにしてくれよ。目的地に着くまで絶対飽きさせないからさ」 「お前みたいな青臭いガキの話なんぞ聞いても退屈なだけだ」 「それは話してみなくちゃ分からないだろ」 「話さなくても分かる。最近の若者はくだらねえ話しでゲラゲラ笑いやがって」 クラウドはぶつくさと文句を垂れながら俺たちに背を向けると、一隻の船に近づいて足取り軽く飛び乗った。白んできた空の下で海は穏やかに波打ち、船は静かに揺蕩っていた。波のさざめきが耳に心地よく、こんなにも素晴らしい音楽が他にあるだろうかと思った。 早く乗れと急かしてきた彼に、やはり今のは彼なりのジョークだったのかと内心安堵しながら、俺たちは船の傍まで近寄った。 「車椅子は置いてけ。誰も取ったりしねえよ」 目線でジャックに確認を取ると、少年はこくりと小さく頷き返した。最初にソフィアがスカートをはためかせて飛び乗り(クラウドが紳士に手を貸していた)、車椅子からジャックを抱き上げると俺も船に移動した。車椅子を邪魔にならないところに移してウヅキも乗り込むと、クラウドは係船柱にかけられたロープを引っ張った。 船なんて最後に乗ったのはいつだろうかと記憶を振り返ってみたが、思い出すことはなかった。たいした思い出がなかったのかもしれない。だが、それも今日で塗り替えられると強い確信を持っていた。 船酔いしないことを祈り、クラウドが船のエンジンをかけるのを見守っていた。彼の慣れた手付きをソフィアがカメラに収めていた。プロの技と言うのか、船に対して興味がなくても、かっこいいと憧れてしまうものだ。四人が腰をかけたのを確認して、船は出港した。 「なんでまた、こんな奴らと仲良くなったんだ」 進行方向に背を向ける位置で腰を下ろしたクラウドが、俺たち三人を一瞥すると、小馬鹿にしたような態度でジャックに訊ねた。特に腹が立ったりしないのは、彼の雰囲気が俺たちを本当に嘲っているわけではないと感じさせていたからだ。嫌味ったらしくはあったが、この程度で気分を害していてはウヅキと友人を続けるのは困難だろう。 「すごくいい人たちだよ」と答えたジャックに、クラウドは顔に皺を寄せた。 「むしろ俺の方が聞きたいぜ。どうしてアンタはジャックと仲良くなったんだよ」 「おい、口の利き方に気を付けろクソガキ。それに坊主とは仲がいいわけじゃない。頼まれたから船に乗せてる、ただそれだけだ」 叱られようとも物ともしないウヅキの態度に、俺は少しは反省しろと彼の脇腹を小突いた。会話に無関心というわけではないのだろうが、ソフィアは写真を撮るのに忙しく、こちらを向いてすらいなかった。船のエンジン音と海水が跳ねる音に、カメラのシャッターを切る音はほとんどかき消されていた。 渋々と謝罪したウヅキに対してクラウドは目を据わらせたが、海の方へ顔を向けて緘黙した。 「目的の場所まではどれぐらいかかるんだ?」 「二十分ぐらいで着くはずだよ」 俺は船から顔を突き出し、海の様子を覗き込んでみた。白んできた空ではまだ海の中をハッキリと見ることは出来ないが、透き通る水と泳ぐ魚の姿に浅いところにいるのだということだけは分かった。まだもっと先へ、より深いところへと俺たちは向かっていた。船の振動か、俺の鼓動か判別が付かない小刻みな揺れが続いていた。 ジャックの教えてくれた通り、二十分程走ったところでクラウドは船を止めた。周りには何もなく、俺たちの出発した船着き場は見えなくなっていた。 「あっちだ」クラウドは船が走って来たのと反対方向(東)を指さした。言われた方を全員が振り向くと、地平線から太陽の頭が覗いていた。 「ゆっくりに見えてあっという間に昇っちまうぞ。しっかり目に焼き付けとけ」 言われなくともそうする。と俺は心の中で返事をしながら太陽と向き合った。 揺り籠のように揺れる船。海は静まり返っている。微かに海水が船に当たり、はじける音がするだけで、後はこの場に居る人間の息遣いだけだった。 何故か頭の中では、オアシスの『ワンダーウォール』が流れていた。 薄明かりの世界を地平線から徐々に昇る太陽が照らしていく。小さな箱に閉じ込められた光が溢れだすように、蓋をこじ開けてこの世を包み込もうとするように、太陽は俺たちに朝を知らせた。 おはよう、世界。 言葉を失っているウヅキと、カメラを持った手をだらんと垂らしているソフィア。ジャックの瞳は太陽を反射したガラス玉のようだった。 俺たちが見た景色はあまりにも美しく、一生忘れることのない日の出だった。
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