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03.旅立ちの合図
これまでの人生で、そしてこれからの人生においても、ほぼ間違いなく一番のサンライズを俺は見届けた。海上での日の出という特別な空間はもちろんだったが、それだけではなかった。共に日の出を見る親友二人の表情。二十一歳の複雑な心境。夏の朝の心地よい風。いろんなものが相まって美しい景色を最高なものに仕上げていった。たかだか二十一年間生きて、一生ものを語るのは生意気だと思われたって構わない。胸を張ってあの瞬間が最上級のサンライズだと言い切れた。いつだって現在より未来より、過去を美化するものなのだ。
船は旋回し、船着き場に向けてゆったりとした速度で戻っていた。潮風を全身で受けながら、俺たちはあの景色の虜になったようにうっとりと海を眺めていた。
「これで旅行も終わりか」
ポツリと零されたウヅキの一言に、途端に急激な寂しさに襲われた。
いや、本当にこれは寂しさだろうか?もっと違う感情な気がする。口にするには躊躇われる想い。
「田舎町ってさ、たまに疲れた体とか心を癒しに来るのにいいよなって都会に住んでると思うんだよ。ずっと居たいわけじゃないんだぜ。でもいざ帰るとなると、あと一日。せめてあともう一日だけって思うんだよな」
誰もが抱く、淡い気持ちではないだろうか。
旅行は体は疲れても心は癒されるものだ。だからこそ日々の心の疲れから逃れたいがために、あと一日…と旅行者は胸の中で願う。まだ足りないんだ。もっとこの海を眺めて、もっと海風を感じて、都会の喧騒から逃れたい。慌ただしい日常など忘れ去りたい。不条理な社会など知らないふりをしたい。大人にならなければならない現実から目を背けたい。
「私も同じよ。出来ることならまだこの町にいたいもの。もっといろんな町の顔を見たいわ」
カメラを覗き込んでいたソフィアは、顔を離すと海のずっと向こうを馳せた。
この船に乗る俺たち旅人の心情は一致していた。理由は簡単だ。寂しさは無論あるが、俺たちの抱くこの感情は『畏怖』だ。俺たちは怯えているんだ。日常に戻ることによって、失うものの多さを知った。
変わりたくない。でも変わらなければならない。旅行を終えて家に帰る行為が、大人になることを表しているようだった。
『子供時代は、永遠には続かない』
ロイ・アイゼンハートの言葉は本当だった。永遠にティーンエイジャーでいるのは不可能なのだ。誰もが怯えながらも、変化を恐れながらも、大人にならなければならなかった。まだ少し、もう少しと思いながら足を引きずっている。
怖い、怖くてたまらないんだ。俺もソフィアもウヅキも、頭では分かっていても、心は大人になるという人生で最大の変化を拒んでいた。
六歳の誕生日に、ロサンゼルスのディズニーパークへ連れられた幼い俺は、閉園の音楽を聴きながら「まだ帰りたくない!」と両親にしがみつき、泣き喚いた。あの時と同じ感情が、俺の心を覆っていた。
「帰りたくない」
涙が落ちてしまいそうになり、俺は唇を噛みしめてグッと堪えた。海を眺望する俺の顔を誰も見ることは出来なかったが、泣きそうになっているのは誰もが察しただろう。海上を船で走っているとは思えない静寂がこの場を包んだ。
「ぼく、事故に遭ったあと病院で自分の足が動かなくなったのを知って思ったんだ」
唐突に口火を切ったジャックの方を不思議と全員が振り返った。注目を浴びようと気にする素振りはなく、少年は煌めく海を眺望して話を続けた。
「今までの生活には二度と戻れない。僕がいつ変わることを望んだの?こんなのってあんまりだよ。このクソったれな足じゃ、どうせろくな人生なんて送れやしないんだから、いっそ死んだって同じだよね。ってさ」
事故についてだとか、車椅子の生活についてだとか、少年は何でもないことのようにいつも話していた。前向きでポジティブな思考の持ち主なのだろうと俺は感心していたが、そこに辿り着くまでにはあまりにも辛い心の闘いがあったのだ。現在のジャックを構成するまでに、幾多の苦難を乗り越えてきたのだろうか。想像するだけでも胸が痛むが、きっと俺の想像など生易しい。現実はもっと厳しく、残酷で、神様は幼気な少年をいたぶり、嘲笑ったはずだ。
「ママとパパは毎日ケンカばかりで、それに心配だってかけたくなかったから、そんな弱音吐けなかったよ。でも一人だけ聞いてくれたんだ。親友のテッドが僕の弱音を聞いてくれた」
温かみのある穏やかな気色で、ジャックは大切な記憶を語った。少年の眼差しはとても九歳の子供が見せるとは思えないノスタルジアに彩られていた。
「その足になってまだ少ししか生活してないだろ。もっといろんなことをやってみて、それでもダメなら諦めればいい。まだ何もしてないのに死ぬなんてあまりにも勿体ないって、テッドは言ったんだ」
死ぬことそのものは否定しない。
親友が死を選ぼうとしていたなら普通は止めようとするはずだ。しかし、ジャックの親友は決して彼の確かに持っている死への感情を否定はせずに、別の案を提示した。子供だからこそ出来た方法なのか、テッドがただそういった性格だったのかは俺には判断できないが、素晴らしい意見に思えた。
「今はあの時諦めなくて、生きることを選んでよかったって心の底から思うんだ。だって生きてたからこんな素敵な町に引っ越して来て、ナイルや他の従業員とも仲良くなって、ジェームズたちとも友達になれた。事故に遭ったこと自体を肯定的に見るなんて僕には無理だけど、もう事故の前に戻りたいとは思わないよ。これはこれでそれなりに楽しくやれてるって、病院に居た頃の僕に、胸を張って伝えてやれるぐらに幸せだから」
俺たちは変化を恐れた。
あの頃に戻りたいと切に願った。
でも仮に戻れたとして、結局はあの頃以上の時間を過ごすことは出来ないんだ。人間は前にしか進めない。時は人を置いてはいかない。進みたくても進んでいってしまうのだ。ならば、こんな未来も悪くないかと自ら歩を進める方がよっぽどいい。
変化は決して恐ろしくないとソフィアとの出来事で知ったはずではないか。ジャック・アンダーソンという少年の生きてきた証が、どんな偉人の名言よりも俺たちの背中を押してくれていた。
一歩踏みだして、変わった先も案外楽しくやれているのかもしれない。未来なんて読めはしないから、大丈夫だとは言えないが、泣いてたって笑っていたって自ら選んだ自分自身なのならば愛してあげたかった。
そして、俺の中には新たな感情が、久方ぶりの衝動が沸き上がってきていた。
書きたい。小説を書きたい。物語を綴りたい。フィクションではなく、妄想の世界のものではなく、俺が実際に体験した現実を小説にしたい。この旅を、醜くて暴虐的で自己中心的で、それなのに美しくも儚く、ティーンエイジャーが大人になる瞬間の物語を小説にしたいんだ。
「もう一度小説を書くことにする」
ジャックに見惚れていたソフィアとウヅキが次は俺を注視した。
「また作家を目指すの?」と問いかけてきたソフィアに、俺は口元を緩めると首を横に振った。
「作家は目指さない。趣味として書いていく」
俺の書く作品はオナニー小説。自己満足小説。
あの編集者が言っていたのは間違いではない。否定しようがない事実だ。今まで『人に読んでもらう』小説を書いたことなど一度もなかった。誰かを笑わせたい?誰かを感動させたい?誰かの気持ちを強く動かしたい?どうでもいい、そんなもの。俺が書きたいのは『自分のため』の小説だった。自分を笑わせて、自分を感動させて、自分の気持ちを前に向かせるための物語。
商売としてやっていくには無理があって、編集者が俺の作品を否定するのも致し方なかった。だが仕事でもなければ金を貰おうとも思わない。ただ書きたいから、書く。自分の為の小説を。
放っておけ!俺のことなんて目に留めなくたっていい。ただ書かせてくれればそれでいいんだ。誰にも否定はさせないぞ。
俺は期待と、希望と、興奮で満ち溢れていた。筆を取りたいと思うことが、こんなにも楽しいのだと思い出した。
「その小説、完成したら僕に読ませてくれる?」
俺は、少年に優しく微笑んだ。
そしてこうやってほんの一握りの人が、俺の小説を物好きにも読みたいと言ってくれるのなら十分幸せじゃないか。
高みを目指して縛られ苦しむのなら、高みなど目指さなくていい。自分の走りたい道を走ればいい。むしろ歩けばいい。寄り道をしながらゆっくりと。
俺達にはこれから先、長い人生が待っている。想像もしていなかった変化をいくつも迎えるはずだ。その度に二○二○年の八月の旅を振り返ることが出来れば、俺は笑顔を見せるだろう。
「ああ、もちろんだよ。ジャック」
船は海の魚たちが見えるぐらいの深水の位置まで戻って来ていた。ふとエンジン音が小さくなり、船が停止した。何事かと思ってクライドを振り返ろうとすると、突然ウヅキが悲鳴を上げて海へと転落した。水しぶきを上げて澄み渡る海へと消え去った親友に俺は目を瞬かせたが、すぐにクライドが彼の背中を押したのだと理解した。
「なにおセンチになってんだ、ただのガキのくせに。そんな臭いやり取りより海に入って見てみやがれ。お前らにはもったいないぐらいのもんが見えるぞ」
「だからって突き落とすことないだろ、おっさん!」
顔を海面に突き出したウヅキは、額にへばりついた前髪を右側に撫でつけて声を荒げた。本気で腹を立てている様子ではないのは誰が見ても明らかだった。
「お前らもさっさと行きやがれ」とクライドは俺とソフィアを急かした。服を着たまま海に入るのは少し躊躇われたが、迷うことなく立ち上がると海に飛び込んだソフィアに倣って俺も後に続いた。
「これ使え」
そう言ってクラウドは俺たちに人数分の水中メガネを放り投げた。キャッチに失敗し、ピシャンと海水が跳ねて俺は目をぎゅっと閉じた。瞼を上げて目の前に浮かんでいる水中メガネを手に取る。いつのまにかメガネを装着したウヅキが真っ先に海へと潜った。
十秒。二十秒。三十秒。四十秒。
勢いよく上がってきた彼は水中メガネを外すと、まるで幼子に戻ったようなきらきらとした瞳で俺たちを見回した。
「まるで異世界だぜ!」
俺とソフィアも水中メガネを着けると海の世界を見に向かった。
水族館の水槽に飛び来んだのかと錯覚するように、眼前には黄色い魚が泳いでいき、追いかけるように次は青い魚が泳いでいた。
体をより深く沈めて天を仰いでみる。頭上から差し込む陽ざしが海面を突き抜け、海の中を照らしていた。外の世界の音がこだまして、ウヅキの言っていた通り異世界へと迷い込んだようだ。蒼い宝石の中に飛び込んだ煌びやかさ。
人魚はもっと美しい光景を毎日見ているのだろう。スキューバダイビングをしてみたいと初めて思った。
「水中カメラを持ってこればよかったわ」
海面に上がってきた俺とソフィアは顔を突き合わせた。互いに笑みを広げて、語らずとも海中で見た素晴らしい景色を共有していた。
船で見守っていたジャックが小さく唸ると、クライドへと視線を転じ「僕も入っていい?」と訊ねた。「事故ってもしらないぞ」と脅す言い方をした彼に、ジャックはにこにこと笑い「へっちゃらだね」と無邪気に答えた。
救命浮き輪を借りた足の不自由な少年は、クラウドに抱きかかえられると海へとゆっくりと下りていく。船の傍によって小さな彼の体を受け止めた。
「ソフィア、ウヅキ」
親友の名前を呼ぶと、俺は少年から腕を離して二人へと体を向き合わせた。
「この町に来れて、本当によかった」
破顔した俺に向けられたのは弾けんばかりの親友たちの笑顔だった。
俺たちは、まるでこうして過ごすのも最後だと言うように(寂しいが実際にそうなってしまうのだろう。しかし今は深く考えず)四人ではしゃぎ、シーブルーの舞台で気が済むまで遊び回った。
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