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04.レンズ越しではない世界
一時間以上ひとりの船乗りに見守られながら無邪気にはしゃぎまわった私たちは海から上がり、船に戻ってくると、疲れきった体を癒すようにびしょ濡れになった服を乾かそうと体を重ねて寝転がった。
土足で踏み荒らした床は砂や小石が落ちていたが、髪が汚れることなど気にならなかった。邪魔だとクラウドは文句を垂れながらも、私たちを椅子に無理やり座らせようとはせず、真上に向かって少しずつ昇っていく太陽を見上げて瞼を下ろした。相も変わらずウヅキがどうでもいいくだらない話をして、私とジェームズとジャックは腹を抱えた。今日もまた真夏の暑い一日が始まって、私たちを照らしてくれるから、すぐに乾くだろう。
私は親友の話に耳を傾けながらも、数時間前に見て、瞼の裏に焼き付いて離れない朝日を思い出していた。
物心付いた時にはカメラを触り始めていて、十歳になる頃には将来の夢が写真家になっていた。まだ幼い私を喜ばせようと両親も喜んでカメラを買ってくれたのだが、今はそうして甘やかし、夢を見させたことを後悔しているのだろう。しかし、両親にどう思われていようと、私の目指す道は変わらなかった。視野を狭め過ぎるのはよくないと、高校時代にお世話になった先生(私の写真を気に入ってくれていた)も忠告をしてくれていたが、これまで一心に追いかけ続けた夢を簡単には投げ捨てられなかった。私はありとあらゆる瞬間をカメラに収めてきた。それは写真家になるため、コンクールで入賞するためでもあったが、単純に私が写真を撮るのが好きだったからだ。無意識のうちに首から下げているカメラに手を伸ばし、レンズ越しに世界を見つめてシャッターを切る。呼吸をするのと同じぐらいに当たり前のことだった。
この旅行の最中も、私は数えきれないほどの写真を撮ってきた。最高の瞬間だけではなく、何でもない日常的なものもいつかは宝になると、二十歳も過ぎた私には十分理解出来るからだ。いつもレンズを通して景色を、人を、記憶を見てきた。それなのに、私は……。
船に佇み、海の向こう側から朝日が昇る光景に、私は本気で魅了された。両手に持っていたカメラが朝日に向けられることはなかった。呼吸を忘れたように、私はカメラに人生をかけるようになってから、初めてレンズ越しではなく己の瞳で美しい瞬間を目撃した。本当に素晴らしいものは、写真ではなく人の記憶に焼き付くものなのだと知った。
『この写真はレンズ越しじゃなくて、ソフィアの目で見てる景色に思えたからかな』
ふとジャックの言葉が脳裏に蘇った。その言葉がどれだけ深いものなのか、改めて実感させられた。まさに真理を突いているのではないだろうか。大切なのは、写真に写る景色や人そのものではなく、そこから伝わる撮り手の気持ちなのだ。私は人を感動させる写真を撮りたいと思っていたが、今は自分が撮りたいと思うものを、撮りたいように撮影することに意味があるように思えた。そうした写真こそが、真に人を惹きつけるはずだ。
三十分か四十分か、船は停止したままでいたが、私たちの衣服がある程度乾いてきたのを確認して「帰るぞ」とクラウドは船を出発させた。激しい振動が背中に伝わってきたが、誰も体を起こし上げようとはしなかった。
日の出を見たときはもう見えないぐらいに遠かった船着き場が迫って来ていた。旅の終わりは目の前までやって来ていたが、清々しい気持ちだった。
最後まで楽しいと思って終わりたい。私はこの旅が始まる前にそう願ったが、色々な障害に邪魔された。しかし、終わり良ければ総て良し。寂しさも悲しみも今は忘れて笑っていられるのなら何の問題もなかった。むしろ少々酸っぱさがあったほうが面白いものかもしれないと、丸く収まったからこそ言えるのだ。
「着いたぞ」
「ありがとうございます」
のそりと上半身を起こしあげて、太陽の陽をいっぱいに浴びながら、うんと体を伸ばした。海水のせいでお気に入りのワンピースがパリパリになってしまったが、クリーニングに出せば元通りだろう。服よりも大切なものがいくつもあるのだ。そういったことを、この数日で経験してきた気がした。家に帰ることが、ニューヨークに帰ることが、泣きそうなほど嫌だったはずなのに(通じて大人になりたくないという表れ)、そんな負の感情も波に攫われて消えて行った。今は旅を無事に終えることこそが、成し遂げなければならない使命だと感じていた。
じわりじわりと気温が上がって、じっとしていると額に汗が浮かんだが、不快感はさほどなかった。
「ああ、クソ。ソフィからもらった時計が壊れてるよ」
腕時計を俯瞰したジェームズが悪態を吐いた。防水のはずだったが、さすがに長時間の海水には耐えられなかったようだ。
「誰か時間分からないか?」ジェームズが全員を見回すと、一眼レフで時間を確認できることを思い出し、ボタンを押して画面を点けた。
「もう九時よ!これから温泉に入って支度をするなら急がなくちゃ」
画面には、9:03と表示されていた。
チェックアウトは十時だ。船着き場からホテルまで歩いて三十分はかかる。これは思っていたより急がなくてはまずいと、私たちは大慌ててで立ち上がった。多少の遅刻は許されるかもしれないが、何分『ヤング・レター』のような高級ホテルは初めての宿泊だ。遅れた分料金を取られかねない。そういった知識を持っている人間は、ここにはいなかった。
ジャックを車椅子に戻すために、ジェームズが体を抱きかかえようとしたが、少年はやんわりと彼の手を拒んだ。
「僕が一緒だと遅くなっちゃうよ。僕は一人でゆっくり帰るから、三人は急いで!」
「でも…」
「心配しないでよ。慣れた道のりだから」
彼が心配していたのは、ジャックが一人でもホテルに帰ってこれるかどうかというところではないのだろう。きっと私と同じことを憂慮しているはずだ。
もちろん帰路のことだって少しは気になるが、ジャックの言う通り、私たちよりずっと慣れた道のりで、車椅子だってすいすいと動かせる。暑さにも強いと話していたから体調面でも問題はないはずだ。
ただ、まだ別れたくない。私たちがホテルを去る時まで、一緒に居てほしかった。しかし、事実車椅子を押していたら遅くなってしまうし、ここで言い合っていても時間の無駄だった。
「分かった。また後で」
その一言にジェームズは本音を閉じ込めて陸へと飛び移った。私もジャックを一瞥すると、お願いだから早く帰って来てねと意味合いを込めた眼差しを送った。続いてウヅキもやって来ると、三人で船を振り向き「ありがとうございました」とクラウドにお礼を伝えた。船乗りは早く行け、と言うように虫を払う仕草をした。
彼らにくるりと背を向けて地面を蹴ると、久しぶりにこんなに全速力で走ったと思うスピードで、私たちはホテルに向かって駆け抜けた。
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