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05.過去との別れ
アスファルトを蹴りつけて、燦々と輝く太陽に照らされながら、ホテルに向かって全速力で走っていたが、もちろん徒歩で三十分はかかる距離をずっと走っていられるはずもなく、真っ先に息を切らしたジェームズが徐々にスピードを緩めていった。俺も全身から汗が噴き出し、心臓が痛いぐらいに高鳴っている。たった一人、まだ余裕がある様子のソフィアが俺たちを振り返ると足を休めて「大丈夫?」と聞いてきたが、どちらも答えるのは難儀なことだった。両膝に手を付いて呼吸を整えているジェームズの隣で、腰に手を当てると空を仰いだ。数回大きな深呼吸を繰り返すと、少しずつ心臓と横腹の痛みは引いていった。
「休んでる暇はないわよ。せめて歩きましょう」
元気なソフィアに急かされて、俺とジェームズは首を縦に振ると再び足を進めた。体力が回復するまではとりあえず早歩きをしようと、素早く足を前へ前へ運んでいく。
まるで学生時代(今も学生なのだが、要は小学生〜高校生ぐらい)に戻った気分だった。不思議とあの頃はいつも時間に追われていた気がする。無理なスケジュールを組み、何とかそれをこなせる体力を持っていた。遊んでも、遊んでも、まだまだ物足りないのだ。朝まで踊り明かして、その後ドライブに出られたらどれだけ素晴らしいだろうか。ブルーノ・マーズを大音量で流し、早朝のニューヨークを駆け巡る。そんなことに憧れていた日々があった。厳しい母親のルールに縛られた俺には無関係な世界だったが、もしかすると俺に内緒でジェームズやソフィアは体験していたかもしれない。そこに俺が居ないことは少しばかり寂しく感じたが、嫉妬はなかった。
何よりも日本に帰れば、それが当たり前になるのだ。俺はアメリカから居なくなる。幼馴染の前から居なくなる。俺は現実ではなくて、記憶の中の人になる。悲しいことだが、己が選んだ道を後悔したくなかった。今まではジェームズとソフィアに甘えすぎていたのだろう。俺はまだ母親から離れることは出来ないが、幼馴染という巣からは旅立たなければならない。いつまでも子供ではいられない現実を、きっちりと受け止める覚悟は十分に出来ていた。
歩き、走りを繰り返して、ホテルに帰ってきた俺たちはフロントで事情を説明すると、新しいバスタオルを受け取って(昨日使った分は大浴場で回収されてしまった)部屋に戻り、大浴場へ向かう支度を整えた。温泉に浸かっている暇はないが、部屋のシャワールームでは三人が一斉に使うことが出来ない。何かあった時のためにソフィアは余分に一着服を持って来たらしいが、俺とジェームズはそこまで用意がよくなく、昨日の服を着ることにした。
「香水で誤魔化せるだろ」
自分の服に鼻を付け、くんくんと匂ってみた。夏は汗をかくせいですぐに臭くなるから嫌になる。それに加えてキャリーバッグの中に詰め込んでいたのだから匂いが篭ってしまうのだ。
(温泉に入った頃には九時三十分を回っていた)俺とジェームズは大浴場でシャワーだけ浴びると、すぐさま出て来て部屋へと走った。まさか最後の最後でこんなに慌ただしくなるとは思っていなかったが、これはこれでいい思い出になる気がした。トラブルがある方がずっと記憶には残りやすいのだ。それを言えば、前日にも前々日にも問題は生じていたのだが。
ソフィアから『髪を乾かす時間が欲しい』とスマホにメッセージが来ていたので、彼女の分の身支度(と言ってもソフィアは昨晩にほとんど終わらせていた)も済ませておいた。俺は荷物をとっ散らかしてしまっていたせいで片づけに時間がかかった。
ソフィアは俺とジェームズが星を見に行っている間に整頓し、ジェームズは帰って来てから寝る前に片付けていた。俺がベッドに寝転がるのを横目に「荷物の整理ぐらいしたらどうだ?」と彼が言っていたのを思い返していた。あの時は眠気が勝ったのもあるが、これだけ時間がない事態に陥るとは予想していなかったのだ。面倒なことは後回しにする俺の癖が、悪い方に出てしまったようだ。
適当に放り込んではカバンのチャックが閉まらないと喚く俺に、ため息を吐いたジェームズが「だから昨日の夜あれほど…」とぐちぐち言ってきた。まるで口うるさい母親のようだと思い、べっと舌を出しておちょくってやった。
ソフィアが部屋に帰ってきたのは九時五十七分だった。
俺たちは一番端のベッド付近に横一列に並んで立つと、忘れ物がないかのチェックに客室をぐるりと見回した。自分たちの荷物が散乱していた部屋はすっかり家具以外のものは無くなって、俺はどことなく日本の家を立つときに、伽藍洞とした自室を見た時の感情と同じものを抱いた。
旅立ちの日というわけだった。
「俺の独立記念日は今日なのかもしれないな」
ポツリと呟いたジェームズに「独立記念日?」と聞き返したが、彼はノスタルジアに浸った瞳をこちらに向けて、口元に小さく笑みを浮かべただけだった。ふと昨晩の帰り道に歌った『ロストハイウェイ』が脳内に流れ始め、俺はニヤリと口角を上げた。ソフィアだけはまったく意味が分からないと言いたげに眉間に皺を寄せていたが、ここで説明してしまうのは野暮というものだ。
"独立記念日”。まさにその通りだった。この部屋を出ることが、この町を出ることが、大人の世界へ飛び込むのと同義だった。自立する日がやって来たのだ。いつも味方をしてくれていた幼馴染との別れ、苦しくも美しい子供時代との決別、この旅行に来る前の俺には耐えられなかっただろう。しかし、今はこの先に真っすぐ続いているハイウェイを見据えることが出来た。その理由は簡単だ。俺の中に呪いのように渦巻いていたトラウマが、大人へとなる道のりで浄化されていったからだ。
『何も悪くないんだよ。ウユキのせいじゃないんだよ。すごく辛かったんだね』
ありふれた同情ではない、少年の励ましは俺の心を真に癒してくれた。頭を撫でられたあの感触をずっと忘れることはない。あの子は俺の親友だ。
もう怖くはなかった。
「行こうぜ」
今日も変わらない窓から見えるターコイズブルーの海は、たった三日間だというのに、まるで何年も前から俺を見守っていてくれていたような気がした。
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