Last day

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04.さらば、ティーンエイジャー 客室を後にして静かな廊下を歩きながら、まるで家の廊下を歩いているかのような気でいるのに気が付いた。人間とは新しい環境も、さも当たり前に順応していく生き物だ。たった三日でこのホテルを我が家同然に感じるようになったのと同じで、これから先に待っている大きな変化も、案外簡単に受け入れられるのかもしれないと思った。それは良いことではあったが、寂しいことでもあった。時の流れは止まらないのだから、どれだけ望んでもいつかは忘れ行くことがほとんどだ。すべてを大切に持っていたくても、人生はあまりにも長い。両手で抱えられる思い出は決まっているのだ。だから人は写真や音声で思い出を残したがるのだろう。己の両手では抱えきれずに零れ落ちた記憶を、確実に思い出せるように。誰もがこの日々を、この時の感情を、忘れたくないと願っているのだ。思い出にしがみつくのではなく、前を向くには追想が時折必要になるのだ。結局のところ、思い出よりも美しいものを俺たちは知らなかった。 エレベーターに乗り込み、ロビーへと下りた。到着するまでのあいだ、ウヅキが一言二言話しただけで、俺たちはほとんど無言の時間を過ごしていた。 大きな問題はすべて綺麗に片付いた(ほとんどがあの少年のおかげと言っても過言ではない)のだが、最後にとても重要なことが残されていた。あの子にお礼を伝えずして、この町を去るのは躊躇われる。俺たちはどれほどまでにジャックの言葉や笑顔、そして生きざまに背中を押されただろうか?たった九歳の子供が、二十一歳の若者を三人も成長させたのだ。とても現実的な話だとは思えないだろうが、実際そうなっているのだから現実は稀有だ。やはり今回の旅行を題材に小説を書くのは面白くなりそうだと心が弾んだ。 帰りの車では親友たちと旅行の思い出を共有したいものだ。俺の知らない話がごろごろと出てきそうだと推測するのは、同じ場所に居て同じものを見ていても、感じ方は人それぞれだと知っていたからだ。それにすべての時間を共にしていたわけではないのだ。空白の時間は実に興味深い。作家魂が疼きだすのを無理やり押さえ込み、今は当面の心配事についてだけ考えておくことにした。 昼前のロビーは賑わっていて、宿泊客のがやがやとした声が響き渡っていた。視線を右往左往と動かして、車椅子に乗った少年を探すが見つからない。 「まだ帰って来てないのかもな」 肩を落として暫く待ってみようと俺たちは噴水近くで時間を潰すことにした。三人で並んで腰かけると(時々水が跳ねて背中にかかった)、ロビーに集まる宿泊客や、忙しそうに行き来している従業員を眺めていた。 このホテルは本当に素晴らしい!ここを選んで貴方たちは正解だ!と大声で全員に伝えてやりたかったが、そんな度胸は俺にはなかった。ウヅキならやりかねないので、俺は思っていることも口にはせず緘黙していることに決めた。 「この中の誰かが、また私たちみたいにジャックと仲良くなったりするのかしら」 大勢の宿泊客を見渡しながら、ソフィアはそっと囁いた。 俺たちはたまたまジャックが外で困っているところを助けて仲良くなったが、普段はどうなのだろうか?そんなこと考えもしなかった。しかし、ジャックはとてもフレンドリーで愛嬌がある。子供にも大人にも好かれるタイプなのは間違いなかった。きっとロビーで宿泊客と話に華を咲かせることだってあるはずだ。それからホテルの紹介をしたり、町の案内をしたり…まさか俺たちのように人生相談まで?なんて、そんなことはあり得ないかと鼻を鳴らした。 何にせよあの子は『ヤング・レター』の一種の名物みたいな存在な気がした。そのうち"赤髪の車椅子に乗った少年と仲良くなれば、幸せになれる!”なんて噂が流れ出しかねない。実際俺たちは幸せになれたのだが、そんな口コミを広めるつもりはない。まだまだジャックには子供らしくいてほしかった。辛いことを乗り越えてきたのだ。この町で平穏に暮らしてくれることを祈っている。 二十分ほどしたところでベルボーイのナイルが通りがかったので声をかけてみたが、今日はジャックは見てないとのことだった。彼はカートを押してさっさと立ち去ろうとしたが、通り過ぎる手前でピタリと足を止めると、俺たちを振り向いた。 「ジャックと仲良くしてくれてありがとな」 まったく予想していなかった彼の一言に、俺たちは全員言葉を失って目を白黒とさせていたが、こちらが何か反応を返す前に彼は歩き去ってしまっていた。呆気にとられたまま顔を突き合わせた俺たちは、数秒間の沈黙のあとに何故かぷっと吹き出すと朗笑を響かせた。 まるでナイルはジャックの本当の兄のようだ。彼らはとても仲がいいようだし、その話も滞在中にジャックから聞ければよかったのだが、残念だ。 それから更に三十分以上が経過し、諦めきれずにロビーに居座る俺たちの空気を打ち破った勇敢な者はソフィアだった。 「そろそろ帰りましょう」 後ろ髪引かれる思いであるのはソフィアも同じなのだろうが、ここでずっと待っていてもいつ会えるか分からないし、仕方ないかと俺も渋々同意を示した。最後にあの子に会えるのなら財布の中の金をすべて払ってしまっても構わないぐらいの心持ちだった。 三人の足取りは鉛でも巻き付かれたかのように重かったが、ウヅキはいつもと同じように明るく振舞っていた。 「また会おうぜ。女神様!」 微笑む女神に手を振った親友を尻目に、俺はキャリーバッグを引くと駐車場へと向かった。 幼馴染三人での初旅行はとても特別なものになった。次はいつになるか分からない。もしかしたらもう次はないかもしれない。未来図はよく見えていなかったが、不安よりも希望の方が大きかった。 車のロックを解除すると、トランクに三人分の荷物を積み、俺が運転席に、ウヅキが助手席でソフィアが後部座席に乗り込んだ。勢いよく扉を閉めると車体が僅かに揺れた。エンジンをかけ、ラジオを付けると車を出発させる。薄暗い地下駐車場から明るい外に出ると、眩しい陽射しに俺たちは目を細めた。 「ジャックよ!」 『ヤング・レター』を右斜め後ろにして走り出したとき、突然ソフィアが感極まった声を上げた。ホテル側の歩道に赤髪の少年が一人、車椅子に腰かけて笑顔でこちらに手を振っていた。少年の膝の上にはホテルの一員である白猫が丸くなっていた。 ブレーキは踏めやしないが、後ろに車が来ていないのを確認すると、スピードを落として車の窓を全て開けた。冷房をかけ始めていた車内には、夏のむわっとした空気が流れ込んできた。 「いってらっしゃい!」 ジャックの見送りに、俺たちは相好を崩した。 窓から身を乗り出して大きく手を振るウヅキと、遠ざかっていく少年の姿をカメラに収めるソフィア。俺はバックミラーで、何度も見た無邪気なあの笑顔を瞳に焼き付けた。目頭が熱くなるのを感じたが、涙が零れることはなかった。 また必ずこの町に訪れると約束しよう。何年後になるかも、そのとき隣に居るのが誰かも分かりはしないが、成長したあの子が変わらぬ笑顔で出迎えてくれるはずだ。 さらば、ヤング・レター。 さらば、美しい海。 さらば、少年。 さらば、俺たちの子供時代。 さらば、ティーンエイジャー。 ラジオからは、クイン・ナインティ・ツーの『ア・レター・トゥー・マイ・ヤンガー・セルフ』が流れていた。
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