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02.海の見えるホテル
二〇二〇年.八月.七日。車に乗り込み(レンタカー)地元を後にした俺と幼なじみ二人は、ニューヨーク州の外れにある小さな港町にやって来た。これといった観光名所があるわけではないのだが、海が綺麗な町だとネットや雑誌で取り上げられていた。
町に辿り着く頃には車窓に海が流れ始めて、また海辺特有の雰囲気に六十年~九十年代の曲でも聴きながらノスタルジックに浸りたい気分に駆られた。二十歳を超えてからというもの、すぐに「昔はよかった」などと言うようになってしまったが、実際のところそれを口にするには若すぎて、ただ俺たちは恰好を付けたいだけの(いわば大人ぶりたいだけの)生意気なガキでしかなかった。更に言えば何とか九十年代生まれの俺がこんな時に聴きたくなるのはイーグルスの『テイク・イット・イージー』だとか、ビートルズの『レット・イット・ビー』とか、ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックの『ステップ・バイ・ステップ』など、誰でも知っているような楽曲でしかない。俺のような若者は、通を気取りたいだけで、実際は現代のヒップホップやロックにしか興味を持てないのだ。
助手席に座り、車に乗り込んでからというものかれこれ三時間近くほぼ喋り通しの友人はウヅキ・ミナモト。ミナモトは母親の旧姓で父親は彼が十二歳の時に離婚している。ニッポンとアメリカのハーフだが、ニッポンの血が強く(母親側)顔つきも童顔で、残念ながらかっこよくはなかったが意外に女の子にはモテている。また身長も平均を下回るせいか、俺と並んでいると年下に間違われやすいが、その度に「俺の大人の色気が分からないのかよ」とウヅキが怒るのが定番の流れだ。俺は彼から大人の色気など一度も感じたことはない。その台詞は彼の錯覚によって生まれるものか、もしくはジョークなのだろう(たぶん後者だ)。
後部座席に腰かけてウヅキの話に相槌を打つのさえ憂鬱になり、窓の外を眺望する彼女はソフィア・マシュー。美しい黒い肌に、栗色の髪がよく映える美人なソフィアはカメラマンを志す夢追い人だ。その腕は素晴らしいと思っているのだが、今まで賞を受賞したことは一度もない。お気に入りのレモンイエローのトレンチワンピースは周りから揶揄されようと気にせずに着続けているもので、折れることを知らない気丈な性格は彼女の魅力だ。
俺とウヅキとソフィアは七歳の頃から付き合いで、ウヅキがニューヨークに引っ越して来たことがきかっけで仲良くなったグループだった。どこへ行くにも一緒、何をするにも一緒、と言うのは中学生までだったが、それでも同じ高校に通い、ウヅキとソフィアはそれぞれの大学へ。俺はフリーターとなったが、関係は変わらずに週に一回は集まるぐらいだった。
向かう先は三日間宿泊することとなった海辺のホテル『ヤング・レター』という眺めのいい宿泊所だった。いわゆる高級ホテルで一泊(一部屋換算)朝食と夕食付きで六百六十ドル。普段なら絶対に泊らないような場所だったが、やけになった俺は、三泊でも五泊でもいくらでもすればいいさ!と旅行の行き先を決めるために集まった際に声を上げた。結果三泊となったわけだが。
また、いくら幼馴染とは言えども恋人同士でもない男女が同じ部屋に泊るのはいかがなものかと話をしたら、ソフィアは「この値段を私一人に払わせる気?」と俺を責め立て、最後には「あなた達が私に手を出せるほどの男じゃないのはよく知ってるわ」とすまし顔で言ってのけ、俺とウヅキを言い負かしたのだった。
実際のところ俺もウヅキも彼女に手を出すなんて愚行はあり得なかった。
「ねぇ、あとどれぐらいで着くの?」
饒舌に無駄話を続けるウヅキを遮ったソフィアが訊ねた。バックミラー越しに後部座席を視界に移すと、彼女の顔は広がる群青色の海からこちらに向いていた。「ドライブのBGMがウヅキのトークなんて最悪よ」
彼女は狭い車内に座っている疲れと、友人のうるさい声に対する苛立ちを露わにした面持ちでため息を吐いた。
「もうすぐだ。あと五分ってナビは言ってる」
俺は『ヤング・レター』までの道のりを案内してくれているナビの表示された液晶画面を顎で指した。
「こんな綺麗な景色が見えるって言うのに随分お疲れみたいだな」
窓の外に視線を転じたウヅキがわざとらしく肩をすくめたが、ソフィアは反応を示すのさえ億劫だと顔を逸らすと口を閉ざした。別段いつも通りのやり取りで何かを思うことはなかったが、俺はウヅキのお喋りなところが好きだった。決して空気が読めないというわけではないし、彼の話は面白いことが多くて飽きないのだ。逆にウヅキをあしらうクールなソフィアも好きだった。この二人はもちろん仲が悪いというわけではなく、むしろ仲がいいからこそのお決まりといった感じだった。ソフィアがもし本当にウヅキを嫌っているなら、三人の関係はとうに崩壊してしまっている。
ナビの指示通り車を走らせていると、左手側に『ヤング・レター』と巨大な看板を携えた建物が見えてきた。赤煉瓦で作られたレトロモダンなホテルだ。駐車場への案内標識が立てられており、傍では警備員がオーバーアクションで宿泊客を案内していた。警備員に従い車を地下の駐車場へと進める。考えることは誰もが同じなようで、ホテルのフロントに続くエレベーター付近は全て埋まっていた。仕方なく少し離れた所に停車することにした。
全員が車から降りると、トランクから三人分のキャリーバッグを引っ張り出した。ソフィアのワンピースと合わせたレモンイエローのキャリーバッグはよく目を引く。俺とウヅキはキャリーバッグ一つで十分だったが、彼女はそれに加えて大きなサイズのショルダーバッグを持ってきていた。「女は男より荷物が多いって本当だな」と不躾な発言を今朝ウヅキがしたことを覚えていた。
トランクを閉めると車の扉をロックし、キャリーバッグを引きながら地下に足音を反響させて、エレベーターの方へと歩き出した。
「フロントに上がって受付でチェックインする。そうしたらベルボーイがお荷物をお運びしましょうか?って声をかけてくるんだ。でもそのボーイはソフィアの荷物を見た途端にこれは五ドルのチップじゃ足りないって思うに違いない」
「そうね、そして間違いなく部屋の案内中にあなたの無駄話を聞かされたせいで十ドルでも足りないと思うわよ」
「俺のトークへの対価は?」
エレベーターのボタンを押すとすぐに上階から地下へ降下してきた。開いた扉からエレベーターに乗り込み、フロントと書かれたボタンをタップする。扉は閉じて、ゆっくりと上昇を始めた。エレベーター内にはゆったりとしたオーケストラがかかっており、高級ホテルなど身の丈に合わない若者を緊張に追いやった。「緊張してるのは俺だけ?」
エレベーターが停止すると、開いた扉の先にあったのは俺には価値の分からないが多分それなりに値の張る壁に掛かった絵画と、これまた高級なのであろう花瓶に活けられた真っ赤な花だった。
「俺も緊張してるぜ、相棒」
軽く肘で横腹をご突いたウヅキはにやけ顔でエレベーターを降りると、前言がまさに嘘だと態度で示すようにさっさとロビーに向けて足を進めていった。その後を俺とソフィアが続いた。賑やかなロビーまでやって来ると、三人は足を止めて思わず感嘆の声を洩らした。
全体的に葡萄酒色と茶色を基調にしたシックな作りのロビーの真ん中には、大理石で作られたクリーム色の噴水が鎮座していた。噴水には巨大な女神の像が立っており、天井から吊るされるシャンデリアの光を浴びて煌々と輝いていた。まるで大舞台に立ち、スポットライトで照らされた名女優のような表情だ。他にも傍にはいくつかのソファと、大きなグランドピアノが設置されていた。
「あの女神様は俺たちを歓迎してるみたいだ。ありがとう!」
両手を広げる女神像に向かってウヅキは片手をヒラヒラと振った。噴水と彼を横目に受付の方へ歩いて行くと、フロントマンはにっこりと笑顔を浮かべて俺たちを迎え「ようこそ、ヤング・レターへ」と深々と頭を下げた。
「ジェームズ・ディーンです」
相手はパソコンをいじると「予約を承っております。本日から三泊ですね?」と営業スマイルを貼りつけたまま訊ねてきた。俺は肯定を返すといくつかのやり取りを交わし、手続きを済ませてチェックインを完了させた。フロントマンは先ほどまで浮かべていた笑みが顔からすっと消えると、腹の底から吐き出されるような鼓膜を震わす声で「ナイル!」と男の名前を呼んだ。突然の大声に俺は驚いて腰を抜かしそうになりながら目を瞬かせていると、自分たちとほとんど歳の変わらないであろう黒髪の男がこちらへと駆け寄ってきた。フロントマンは一つ咳ばらいをすると、威厳を持った表情でやって来た男を見据えた。
「お客様の荷物をお運びしなさい」
「はい、分かりました」
ナイルと呼ばれた男はどうやらベルボーイだったようで、すぐに荷物を運ぶカートをこちらに押してくると、俺たちから荷物を受け取ってカートの上に積み上げた。フロントマンから受け取った二枚のカードキーをナイルは確認し「ご案内致します」と筋肉の付いた腕に力を入れ、カートを押しながら歩き始めた。
彼は黙々と仕事をこなしていたが、部屋に向かう道中も喋りっぱなしのウヅキの相手をしてくれていた。そのおかげで俺とソフィアはほとんど内装を見ることに専念することが出来た。広々とした敷地を持っているホテルは、中央が吹き抜けとなっていて七階からでもロビーの噴水を見ることが出来た。やはり昼間なこともあってか(ロビーは賑わっていたが)宿泊客は部屋には居ないようで、茶色のカーペットが敷かれた廊下は静かに流れるオーケストラ以外何も聴こえて来なかった。壁には時折絵画が飾られているのだが、ふと目に付いた少年四人と少女一人の姿が描かれた絵に心惹かれた。海辺に佇む五人の子供達は全員がこちらに顔を向けていなかったが、少年が海と向き合っているのに対して、少女だけは右側を向いていた。とても儚げな横顔だ。
案内された部屋は七階の七〇三七号室。ナイルがカードキーを翳すと、ドアのロックが解除される音が森閑とした廊下に響いた。扉を開けた彼に先に入るよう促されると、俺たちは三日間宿泊することとなった客室に足を踏み入れた。部屋に入ってすぐに左手側にはコート掛けなどの収納棚があった。少し進むと右にシャワールームに続く扉がある。その先がベッドやソファ、テレビの置かれた部屋だ。かなり広々とした作りになっており、三人でもまったく問題はなかった。
後に続いたナイルはカートを止め、ブレーキをかけると荷物を丁寧に床に下ろしていく。ショルダーバッグだけはソファへと持っていこうとしていたが、ソフィアが彼を制止すると直接受け取った。ついでに二枚のカードキーも一緒だ。
「何かあればいつでもフロントにお声がけください」
「ありがとうございます」
彼を振り返ると俺はアウターのポケットに手を突っ込み、一ドル札を数枚適当に取り出して相手に手渡した。ナイルは一礼すると踵を返してさっさと客室を後にした。まるでその背中からは、これ以上の仕事はごめんだからな!と物語っているように見えた。ウヅキの無駄話に付き合わせてしまったことをそっと胸の内で謝罪しておく。
扉がバタンと閉じるのを見届けると、俺たちは沈黙したまま顔を見合わせた。ソフィアがショルダーバッグを床に置いたのを合図に、三人で一斉にバルコニーへと走り出した。眺めのいいホテルに来て(オーシャンビューだ!)真っ先にすることと言えば一つしかない。白乳色のカーテンが両端に避けられている大きな窓のカギを解除し、バルコニーへとその身を解放した。
目の前に広がった爽快なまでの真っ青な景色に、今年一年はクソコロナのせいで散々なもの間違いなしと酒に溺れた過去の俺など忘れてしまう感動を覚え、三人揃えて大きな歓喜の声を上げた。
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