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03.車椅子の少年
三十分ほど客室で過ごした俺たちは、大学で開催される夏季の写真コンクールにソフィアが応募するための写真を撮りにホテルを出発することにした。
客室内やバルコニーからの風景、ホテルの廊下やロビーなどの撮影もしながら、ゆっくりと時間をかけて外に出た俺たちは肩を並べた。ホテル近辺には特にこれと言って何かあるわけでもなく、車の通りは少なかった。人もほとんど歩いていないようだ。
「さて、こんなに綺麗な海ならどこから写真を撮っても最高の出来になると思いますが、わざわざスポットを探すのかい?」
青色の宝石が散りばめられたような海の絨毯を眺望し、腰に片手を付いたウヅキが演技じみた口調と声色で問いかけた。彼の言う通りこんな綺麗な海は今までに見たことがなかった。ジェームズ・ディーンの二十一年の人生において最も美しい海を目の前にしていると思った。
ここはリゾート地ではないのだが、リゾート地に足を運ぶとこころが洗われ、その人の価値観までも変えてしまうことがあると聞く。こんなにも美しい海を見れば、その気持ちも分かる気がした。
「もちろん探すわ。どこから撮ってもいい写真になることは確かに間違いないけど、私は私の気に入るスポットを見つけたいのよ」
「プロっぽいな、さすがだぜ」
ウヅキは本気で褒めているのだろうが、彼の消えない道化の雰囲気のせいでその言葉は薄っぺらく、相手をからかっているようにしか聞こえなかった。
俺は海から視線を外すとそのままスライドするように右へ顔を向けていき、俺たちから少し離れた所に居る少年が目に留まった。レディッシュが夏の風に吹かれる少年は車椅子に乗っているようだが、どうやら片輪が溝に嵌っていしまっているようで何とか抜け出そうと躍起になっていた。
「二人とも。写真を撮りに行く前に人助けに興味ないか?」
二人は俺の顔を見上げてからすぐに視線の先を追って少年を発見した。
「大変じゃない」とソフィアが小さな声を上げて「すぐに行きましょう」と付け加えると真っ先に歩き出した。俺とウヅキも彼女の後に続き、少年の下へと向かった。少年は幼いながらに思いつく限りの悪態を吐いて(あまり様になっていない-言い慣れていない-ように感じた)、周囲に苛立ちを見せていた。少なくとも数分間はあそこで立ち往生しているに違いないと思うと、すぐにでも救出してやらなければと使命感に駆られた。
「大丈夫?もしよければ私たちが手を貸すわ」
嵌った車輪と忌々しい溝を睨みつけていた少年は頭上から降りかかった声に弾かれたよう顔を上げて、俺たち三人をじっと見据えてからすぐに険しかった顔つきを僅かに緩めた。
「ありがとう、すごく助かるよ」
「ジミー、この子を抱えてあげて」
俺はソフィアに指示された通り少年の前で膝を付くと、背中と膝下に腕を回して小さな体を抱きかかえた。思った以上にひょいと軽く抱えられたことに驚いて、危うく立ち上がるのと同時に後ろにひっくり返ってしまいそうになったが、すぐにソフィアが俺の体を支えてくれたおかげで何とか事故を回避できた。溝に嵌ったまま残された車椅子をウヅキが引っ張り上げると、道の真ん中まで移動させ「どうぞ、お坊ちゃま。お座りください」と悠々とした所作で頭を下げた。少年は面白おかしくクスクスと笑って、俺に下ろされると少し尻を動かしてからちょうどいい態勢を整えた。
「本当にありがとう。いつもならこんなとこに落っこちたりしないんだけど、急に飛び出してきた猫を避けたら…」
「そりゃ仕方ないな。なんせ猫は俺たち人間なんて知ったこっちゃないって顔で生きてるんだからさ」
両肩をあげると、やれやれと仕草を取ったウヅキに少年はまた笑みを零しながら同意を示した。歳は八歳か九歳ぐらいだろう。夏にも関わらず薄手ではあるものの長袖のパーカーを着ており、額には汗が滲み浮かんでいた。膝にはブランケットが掛けられ、より一層暑苦しく見えた。
俺の観察するような眼差しに気が付いたのか、少年の顔から笑みが消え「なに?」とやや棘のある声音で訊ねられた。ウヅキとソフィアが、何をした?と言うように俺に顔を向けてきたことでバツが悪くなり、慌てて謝罪を口にした。
「ごめん、長袖だったから暑くないのかと思って」
少年は自分の恰好が当たり前過ぎて、周りの人間と比べて違和感のある服装だというのをすっかり忘れていたといったような表情で自分を見下ろしてから「ああ、これはね…」と腕をさすった。
「事故に遭った時の傷が消えないんだ。人に見せたくなくて、外に出る時はいつも長袖を着るようにしてるんだよ」
車椅子の少年からの返答を聞き、俺は数秒前の自分を殴りつけたくなった。どうやらソフィアも同じ感情を抱いているようで、左頬に突き刺さる視線はあまりにも鋭かった。車椅子に乗ることになったのもその事故のせいなのだろう。
少年は何でもないといった顔で俺たちを見上げていたが、きっと辛い記憶を会ったばかりの見知らぬ男に呼び起こされて心の中は大嵐だ。
何か言わなくてはと、滲み出る嫌な汗を拭いながら口を開きかけた俺を遮って、ウヅキが普段と変わらない明るさで口火を切った。
「そうなんだな。ところで君はこの辺に住んでるのか?」
強引な話の切り替えに俺は引きつった笑みを貼りつけて少年を見下ろした。今はとにかく事故の話題から逸れたいというのが、幼なじみ三人の気持ちで間違いはなかった。
すると少年は俺たちが宿泊しているホテル『ヤング・レター』を目で指して「あのホテルに住んでるんだよ」と答えた。
「おいおい、まじかよ!高級ホテルだぞ?本当のお坊ちゃまってわけか」
「お金持ちなんかじゃないよ、ママがホテルのシンガーなんだ。だから住み込みで仕事をしてるんだよ」
「へぇ、スイートライフみたいだな。もしかして双子だったりする?」
「残念ながら一人っ子だし、売店の可愛いお姉さんやホテルオーナーの娘が暮らしてたりはしないかな」
ウヅキは目を瞬かせて口笛を吹くと「スイートライフ知ってるんだな」と嬉しそうに笑った。
先ほど感じていた気まずさは海の地平線へと飛ばされていったかのように、その場には楽し気な空気だけが満ちていた。幼馴染のトーク技術には感心させられる。俺は心の中でウヅキに感謝をし、一緒になって破顔した。
「俺たち海の写真を撮りたいんだけど、この辺でいいスポットがあったりしないか?」
少年からソフィアの手元にある一眼レフに一度視線を転じたウヅキの問いかけに、暫くの間少年は思案するような素振りを見せたが、何かを決めた時というか何かを吹っ切った時のような色に瞳が輝いた。
「いい場所を知ってるよ。助けてくれたお礼に案内してあげる」
「小さな神に心からの感謝を!ハレルヤ!」
大袈裟なまでに声を張り上げ、両手を天高く突き上げたウヅキに少年はケラケラと腹を抱えて笑ったが、次第にその笑いは痰が絡まったような濁った音に変わり、小さな体は楽しさから苦しさによって震えだした。突然咳き込み始め、背中を丸めた少年に俺たちは狼狽えて背中に手を当てると優しく擦った。
「大丈夫か?」
少年は微かに涙を浮かべるとポケットから噴霧式吸入器を取り出し、キャップを外すと口に咥えて息を吸い込んだ。胸が大きく上下に動く様を不安になりながら見ていたが、口を離して息を吐き出すともう一度吸入器を咥えて…と数回繰り返し、荒くなっていた呼吸は落ち着きを取り戻した。
背中に当てていた手を退けて、少年の顔を覗き込んだ。ソフィアが「もう平気?」と聞いたのに対し、彼は首を小さく縦に振った。膝を折って地面にしゃがみ込んだウヅキが吸入器を持っているのと反対の手を強く握りしめた。
「ごめん、まさか俺のジョークが人を傷つける力を持ってるなんて知らなかったんだ」
こんな状況でさえふざけていられる彼の度胸は不謹慎だと叱るように肩を叩いたが、少年は小さく笑い返して首を横に振った。
「気にしないで、お兄さんのせいじゃないから。事故のせいで気管もイカれちゃってさ。この体は悪いところだらけだよ。出来るなら生まれ変わりたいな」
「俺も出来ることならもっと無口な男に生まれ変わりたいよ」
「あなたは生まれ変わってもきっと変わらないわね」
辛辣なソフィアのセリフにウヅキはわざとらしく唇を尖らせた。二人のやり取りに少年はまた微かな笑みを零すと、重大なことを思いだしたかのように両目を見開いた。
「自己紹介がまだだったよね。僕はジャック・アンダーソン。お兄さんたちは?」
「俺はジェームズ・ディーン。こっちの美人がソフィア・マシューで、うるさい奴がウヅキ・ミナモトだ」
「ジェームズにソフィアにウユキだね、覚えたよ。行こう!とっておきの場所に案内するから」
吸入器の蓋を閉め、ポケットにしまったジャックは車椅子をホテルとは反対方向に回転させるとハンドリムをぎゅっと握り漕ぎ始めた。俺たちは少年の車椅子に衝突してしまわないよう注意しながら、ゆっくりと進んでいくジャックの後に続いた。
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