Fast day

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04.大人と子供 道案内の為に俺たちの前を車椅子で進んでいくジャックの後姿を見つめて、その手慣れた様子に感心と切なさが込み上げた。特別情に厚いわけではなかったし、すぐに泣いてしまうような性分でもないのだが、子供の不幸話を目の当たりにすれば無条件に胸が痛むものだ。 右隣りを鼻歌を口ずさみながら歩くウヅキと、左隣で景色の写真を撮っているソフィアに目配せした。二人とも俺の眼差しから真意を汲み取ると目尻を下げた。すぐにソフィアが俺の腕を軽く叩いたので、意を決して十歳は歳が離れているであろう少年に話しかけようとしたが、先にお喋り好きのウヅキが口火を切った。 「ジャック、ちょっといいか」 「うん?どうしたの?」 車椅子のハンドリムを掴んで動かす手を止めることなく少年は俺たちを一瞥した。そういった所作が自然に出来ていることに、言葉にし難い感情に襲われた。 「知らない大人に車椅子を押されるのは嫌か?もしそうじゃないなら是非ともその神聖な乗り物に触れさせていただきたい」 「嫌じゃないよ。それにウユキたちはもう知らない大人じゃないからね」 車椅子を停止させるとジャックはこちらを振り向いて邪気のない笑みを見せた。誰かを疑うことを知らない純粋な瞳に、自分にもこんな時代があったのだろうかと思い返してみたが、実際にあったであろう幼き時代はまるでフィクションのように感じられた。大人が子供心を徐々に理解出来なくなっていくのは、正にこういうことなのだろうか。 「そりゃよかった。ありがとな」とウヅキは少年に近づくとハンドルを掴んだ。二人の姿をレンズ越しに捉えたソフィアはシャッターを切った。ふとジャックの耳元に唇を寄せたウヅキは何かを囁き、車椅子を他人に任せた無防備な少年は不思議そうに小首を傾げてアームサポートを強く握ったかと思うと、ウヅキは力任せに車椅子を押し、勢いよく走り出した。ジャックもまた予想していなかった衝撃に「うわあ!」と声を上げた。俺とソフィアは突然の幼馴染の奇行に目を点にしていたが、我に返るとすぐ様止まるよう呼び掛けた。 「何してるのよ!」 悲鳴にも近いソフィアの怒号に返ってきたのは愉しげなジャックの笑い声だった。俺たちから数メートルは離れた所でウヅキはスピードを緩めて足を休めた。たった数十秒の出来事でこちらには感じ取ることが出来ない何かを育んだように、ウヅキとジャックはグッと距離を縮めた様子で互いに顔を見合わせると腹を抱えた。安堵の息を吐いた俺とソフィアは小走りで二人の下に向かうと、半ば強引にウヅキを車椅子から引き離した。 「ウヅキに任せてたら心配で仕方ない。俺が押すよ」 「ありゃ。それは残念だな」 「ふざけないで。もし怪我したらどうするつもりだったのよ」 睨みつけたソフィアに対し、未だに笑いが収まらないジャックが「でも怪我はしてないよ!」と答えた。まるで母親と息子の会話を見ているようだ。 そういう問題ではない。と彼女は言いたげだったが、初対面の少年に母親や教師のように叱咤するのはいかがなものかと考えたのか、大人しく口を閉ざした。 「さあ、行こう。俺は安全運転第一だからな」 少年を助けたときに想像よりも体重が軽いのは分かったが、どうやら車椅子もかなりの軽量型のようで予想以上にすんなりと押して進むことが出来た。もっと力のいる作業だと思っていただけに、これならどこまででも行けるぞと心の中で呟いてから、どこまでもは言い過ぎか…と自分で自分の言葉を訂正した。 「市内とは見せる景色も感じる空気も全然違うわね。新鮮だわ」 「三人はニューヨーク市に住んでるの?」 「ええ、そうよ」 「奇遇だね。僕も引っ越してくる前はニューヨーク市に住んでたんだよ。ミッドタウンのマンションで、窓からはタイムズスクエアが見えたんだ」 俺はジャックの言葉に驚愕して目を白黒とさせた。 先ほどこの子は自分が金持ちであることを否定していたが、ミッドタウンのタイムズスクエアが見えるマンションにかつては住んでおり、今は高級ホテルのスイートルーム暮らし。間違いなくお坊ちゃまだ。 母親はホテルでシンガーをしていると話していたが、父親はどんな仕事をしているのだろうか?どこか大企業の社長であってもおかしくはなかった。 勿論そんな不躾な質問をするわけにもいかず、ただ黙っているしかなかったが、少なくとも俺は気になって仕方がなかった。 「すげぇな!だとしたらこっちに引っ越してきて田舎の生活に慣れるのは大変だっただろ?」 「色々と驚くことはあったけど、そんなに大変でもなかったよ。こんな足だしね。都会よりこっちの方が楽なんだ」 「あんな人混みを車椅子で進むのは至難の業だからな」 苦笑した俺に、ジャックはまさにその通り!と大きく首を縦に振った。 事故で気管が悪くなってしまったとも言っていたし、体のことを思うと田舎に住んでいる方がいいのだろう。それでも今住んでいるところから離れて暮らすことを想像すると無意識に眉間に皺が寄った。 引越しが前向きであったり、希望であったりするのはその環境に納得がいっていない場合に限る。十分素晴らしい環境に身を置いていれば、引越しとは寂しくて辛いものになるだろう。 いつでも俺は変化を恐れていた。ずっと子供のままでいたいとどれだけ願っただろうか。 「仲のいい友達と離れるのは寂しかったな。今も連絡は取り合ってるんだけどね」 「子供時代に出来た友達ってすごく大事なのよ」 「三人も幼馴染でしょ?見てたら分かるよ」 少年の鋭い観察眼に感心を示し、俺たち三人は同時に肯定を返した。綺麗にピッタリと声が揃ったことがおかしくて、全員でクスクスと笑みを零す俺たちのやり取りにジャックも表情を穏やかにさせていた。 「腐れ縁みたいなものよね」 「何となく一緒に居るのが当たり前になってるからな」 二人と出会ったのは七歳の頃。ウヅキが日本からニューヨークに引っ越してきたばかりの時だった。俺は一人で図書館に引きこもって読書ばかりをしているような、要は根暗な子供だった。ソフィアは現在と変わらず勝気な性格で勉強熱心な子だ。ウヅキも変わらない。お喋りで(当時はほとんど英語が喋れなかったのに)ユーモアに富んだ性格。俺たちが初めて話をしたのは図書館だ。俺は読書、ソフィアは写真集漁り、ウヅキは英語の勉強。全員が同じ机に距離を開けて座っていた。一番始めに動いたのはウヅキだった。俺に「何読んでるの?」と声をかけたのがきっかけだ。根暗だったがコミュニケーションを取るのが苦手なのではなく、あくまでも読書が好きでそればかりに打ち込んで友達が出来なかった俺は、別段人と話すことが苦手なわけではなかった。だから拙い英語で気さくに話しかけてきたウヅキの質問には躊躇わず答えた。その小説がスティーヴン・キングの『ゴールデンボーイ』。たまたま読んだことがあったウヅキは嬉々としてそのことを語り、俺たちは意気投合した(共通の趣味を持つ相手が見つかったと思ったのは勘違いだったが)。そして図書館で騒がしく話す俺たちを叱ったのがソフィアだった。 「こいつは間違いなく世界一の相棒だぜ」 ウヅキは俺の右肩をポンポンと叩き口角を上げ、ソフィアに視線を転じると「そして彼女は俺たちのご主人様さ。俺たちは忠犬バルドだ!バウ!」と犬の鳴き真似をした。彼のおふざけに俺はため息を吐いたが、ジャックが愉快に笑うのを聞いて頬を緩めた。 「あなたじゃ忠犬になんてなれないわ。吠えてばかりでうるさいもの」 「忠犬になりたいならその口を閉じるしかないな」 「それは無理な相談だぜ」 俺たちの言葉を笑い飛ばしたウヅキに、当然の反応だと肩をすくめた。彼と関わった全員が口を揃えて「アイツが喋らなくなるのは死んだあとぐらいだ」と言うのだから。俺も全く同じ意見だし、彼が話さなくなるなんて想像できなかった。 「ここを左だよ」 ジャックが緩く斜面になっている道を指さして俺たちを誘導した。平坦な道を進む時よりも腕に力を入れると車椅子を押して、ゆったりとした坂道を登っていく。右手には雑木林、左手には海が広がっている。歩道はなくなり車道を歩く形になっているせいで、少年を乗せた車椅子を押すのは少々不安だった。「いつもはここを一人で?」 急な斜面ではないにしても、この坂道を子供一人で車椅子で行くのはなかなか厳しく、体力が奪われそうだった。 「ううん、いつもはナイルが一緒だよ」 「ナイル?」 「ホテルでベルボーイをしてるんだ。従業員みんなと話すけど、ナイルとは一番仲がいいんだよ。仕事中もよく声をかけてくれるし、休日も遊びに連れて行ってくれたりする」 今日俺たちの荷物を運んでくれたベルボーイが、フロントの男にナイルと呼ばれていたことを思いだした。二人も気が付いたようで「あの人か」と囁いた。人は見かけ(態度)によらないとはこのことである。 「それはよっぽどの子供好きか、ジャックの母親を…」 ウヅキは言葉を切り、態とらしく誤魔化すように咳ばらいをした。さすがの彼でもこれ以上の発言を子供の前でするべきではないと理解したようだった。不思議そうにして後ろの俺たちを振り向いたジャックに、俺は苦笑して首を横に振った。 十五分程かけて坂道を登りきると、四人は開けた空間に出てきた。その場所は仕切りやガードレールすらない崖っぷちだったが、視界を遮るものは一つもない高台からのあまりの絶景に、俺たちは息を呑んで足を止めた。ソフィアが幼い頃のように爛々と輝く瞳で崖のギリギリまで走り寄るとカメラを構えた。 「まるでブルーだけを集めたパレットだ」 俺の感想にジャックは顔を上げると「素敵な言い回しだね」と称賛の眼差しを向けてきた。褒められると自分の発言がどれだけフィクションに感化されたロマンチストの戯言なのか自覚させられ、恥ずかしさに頬を上気させた。居心地悪く感じている俺などお構いなしに「こいつは小説を書いてるからな」とウヅキが余計なことを話した。 シーブルーとトルマリン、ターコイズブルーといった感じで深さによって同じ青色でも変化を見せる神秘的な海を前にしているにも関わらず、俺の感動は恥辱に覆い隠された。 「もう書いてない。書かないって決めたんだ」 俺に才能なんてなかった。そんなことはとうに気づいていたのではないだろうか?クソ編集者に図星を突かれ、俺は機嫌を悪くしただけではないのだろうか。あまりにも幼い怒りだ。 己が惨めでどうしようもなかったが、どこかに感情をぶつけて心を守るのは人間の防衛本能だ。出来ることなら傷つかずに生きていたいと誰もが願っている。俺だって例にたがわずその一人だ。 「まだそんなこと言ってるの?」 ひたすらシャッターを切っていたソフィアがこちらを振り向くと、憐れみと少しの悲哀を交えた双眸で俺を正視した。微かな潮風が俺たちの髪を撫でた。 「理解してくれるだろ?」と俺はリアリストのような笑みを口元に浮かべた。ソフィアは何も言おうとしなかったが、その目は好きにすればいい。と言っているようだった。ポンポンと俺の背中を軽く叩いたウヅキが「お前が選んだことなら応援するぜ」と微笑み、ソフィアの方へと歩いて行った。下から車椅子に座った少年の視線を感じたが、俺は応えようとはしなかった。 二人なら理解してくれると信じている。俺にとって彼らほどの存在はこの世に居るはずがなく、誰よりも近しい人物だった。家族とは違う家族以上の絆を感じる親友二人。俺が二人を心の底から愛しているのは間違いなかった。 二人を敬い、愛し始めたのは何もずっと一緒に過ごしてきたからというわけではない。 彼らが生涯の友になるであろうことを確信したのは、五年前の夏休みを目前に控えた日だった。
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