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05.打ち明け話
二〇一五年.六月.十日.『2032カフェ』
夏休みを目前に控えた学生は、このところ誰もかれも浮かれ気分であり、俺もまた昨日までそのうちの一人だったが、ふと直感的に今朝思い立ったことにより心の中は不安で支配されていた。十六歳の夏休みを最高に楽しむ計画はとうに練られているのに何故自分を追い詰めるようなことを唐突に決心してしまったのか、俺は今朝の自分に訊ねたくなった。だからと言って、なかなか掴むことの出来ないチャンスをふいにしたくはない。
十三歳から通いつめている2032カフェは今日も売り上げは上々のようで店内は非常に賑わっていたが、俺の座席だけは周りと違っていた。手元のアイスコーヒーをマドラーでひたすら交ぜ続けた結果泡が立ち、美味しそうなコーヒーの姿は跡形もなく消え去っていた。目の前に腰かけて俺が話し出すのを待っていたソフィアとウヅキは、ほぼ同時に疲れを滲ませて息を吐きだした。
「ねぇ、話す気があるの?ないの?」
彼女のアイスコーヒーが入っていたグラスが空になっているのを見て、どれだけ時間が経過しているのかを察した。待たされるというのは(しかも本人達は何を待っているのかも分からない)いつも人間に苦痛を与えるものだ。
「そんなに話しにくいことなのかよ。俺があの女にされてたことよりも?」
「ねぇ、やめて。どうしてアナタのその話を引き合いにだすのよ!」
「気にするなって、ソフィア。言うなれば昔の話、終わったことさ」
「いい加減にして。私はあいつをまだ許してないわ」
怒りに顔を真っ赤にしたソフィアに俺も内心同意を示した。ウヅキをかつて傷つけた女と、その出来事に気が付けなかった昔の自分を俺はまだ許せていなかった。彼の衝撃的な事件に比べれば、俺の打ち明け話の方がずっとマシだろう。緊張が消えるわけではないが、ずっと黙っていても仕方がないと勇気を持てた。
「二人とも、聞いてくれ」
ヘラヘラと笑って適当に言葉を返すウヅキと、未だに不快感を露わにするソフィアに、俺は静かだが強い口調で口火を切った。二人が閉口すると同時にスイッチの切り替えボタンが押されたよう真剣な顔で俺へと向き直ったので、心臓が飛び跳ね、胃がキュッと締め付けられた。
「実は恋人が出来たんだ」
もっけとした二人の面持ちを見ていると、俺はより一層これから先のセリフを言うことが憚られた。我に返ったウヅキは「まじかよ!」と声を上げると、うるさいぐらいに拍手をして賞賛の言葉を投げかけてきた。近くに座る客から注視され、俺は手を叩くのをやめろと叱責した。
続いてソフィアも呟くように祝ってくれたが、納得がいかないといった顔つきをしていた。これだけ待たせておいて恋人が出来たという発表なのか、と不満がっているのだろうが、重要なのはこの先だと俺は心の中で叫んだ。
「ありがとう。その恋人なんだけど…」
机の上に寝かせていた手が微かに震えているのに気が付き、俺は握り拳を作ると泡立ったアイスコーヒーを睨みつけた。
誰にも話さないでくれ。三人だけの秘密だ。特に親にだけは…、なんて前置きをしておけばよかっただろうかと後悔しながら、心臓が早鐘のように鳴っているのを感じ、昼食に食べたホットドッグが胃から口へと逆流してきそうだった。
「…恋人は男なんだ」
ずっと言いたかったことをポロリと口にした途端スッキリすると思っていたが、現実はそう甘くもなく、冷蔵庫に放り込まれたように突然足先から頭のてっぺんまで冷えていき、俺の肌は鳥肌が立っていた。とてつもなく己が怯えているのを察し、恥ずかしくなった。だが、それ以上に怖くて顔を上げられない。二人がどんな風に俺を見ているのか想像すると涙が出そうになった。
自分が男が好き(ゲイであるということ)に気が付いたのは十三歳の頃だった。昔から周りの男友達が好きだと言う女優よりも、女友達が騒ぎ立てる俳優に興味を引かれたように、気が付けば性の対象が男になっていた。自慰行為をする時も決まって男相手にキスをする妄想から始まっていた。必然的にそうしたのではなく、いつの間にかそういった妄想が当たり前となっていた。
俺は心の病気だ。普通とは違う。頭がイカれてるんだ。何度もそう思って正気を失いそうになった。もっと早く相談したかったが、憶病な俺は二人との縁が切れてしまうことを恐れた。彼らを信頼していると口では言いながら、実際は疑っていたのだ。何かあっても友達で居てくれるなんて嘘ではないのか。案外簡単に人の縁とは切れるものだ。
「ねぇ、ジェームズ」
ソフィアが俺の左手を握ったことに、伏せていた顔を弾かれたよう上げた。彼女の目は真剣そのもので、有無を言わせぬ空気を感じさせた。
「両親は知ってるの?あなたが…」
「いや、知らない」
俺はすぐに否定を返した。両親に自分がゲイであるなど恐ろしくて話すことが出来なかった。別におかしことじゃないと受け入れてくれるのが理想だが、現実はそう上手くはいかないものだ。だってフィクションですら同性愛者が幸せになる話の方が少ないと言うのに、現実はどれほどまでに残酷だろうか。いつでも物語の世界が幸せとは限らなかったが、現実よりはずっと美しいと信じていた。
彼女の手を握る力が強くなった。
「誰にも話せなかったのは辛かったでしょ」
あまりにも優しい声色に凍てついていた心が溶かされるような感覚がして、徐々に目頭が熱くなった。泣いてたまるかと唇を噛みしめ「平気だよ」と答えた。強がりであることなど誰が見ても一目瞭然だった。強情にも親友二人の前では泣きたくないというプライドがあった。
「私たちを信頼してくれたのかどうか分からないけど、話してくれて嬉しいわ」
思ってもみなかったソフィアの返事に、俺は堪らず声を詰まらせた。唇が震えて上手く言葉を喋れそうになく、ただ彼女の美しい手を握りしめた。すると空いている右手をソフィアと同じようにウヅキが取り、いつもと変わらない調子で笑いかけた。
「そんなことで俺たちの何が変わったりするんだ?安心しろよ、親友」
俺が好きになった相手がゲイだったのは偶然なのか必然なのか分からないが、お互いに惹かれ合って恋人になった。恋人を愛するにつれて俺の気持ちはおかしいものなんかじゃないと思えるようになった。れっきとした誰もが人生で一度は抱くであろう誰かを愛する気持ちだ。だから俺は親友二人に打ち明けたくなった。俺の愛する人のことを聞いて欲しかったし、祝福してほしかった。受け入れてくれるなら誰でもいいわけじゃなかった。誰よりも時間を長く共有する彼らに知ってほしかった。祝ってほしかった。受け入れてほしかった。
いよいよ我慢の限界に達した俺の瞳からは、一筋の涙が零れ落ちた。一度涙は零れ始めると簡単に止まるものではない。馬鹿の独り善がりのようなプライドは捨て、泣きじゃくるだとか嗚咽を上げるだとかそんな泣き方は決してしないが、確かな安堵と彼らが友人で本当によかったという気持ちでいっぱいになり、ポタポタと温かな雫を机に何度も落としていった。
二人は俺の涙が収まるまで、ただ黙って手を握り続けていた。
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