第3話 やり残し

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第3話 やり残し

 千歳は自分の遺体の眠るように安らかな顔を見た。苦しまず死んだのなら良かったが、なんともやるせなかった。  立ち上がると、すう、と肉体から自分のすべてが抜け出す感覚があった。自分の死体を眺めるなんて、そうそうたる経験だとなぜか自棄になっている千歳自身がいた。 「どうしてくれるわけ? どーするの、お葬式出されちゃったら」  このままでは自分があまりにもかわいそうだと、やっと千歳は思った。恋もろくにせず、会社で馬鹿みたいに働きづめて、手取りのお給料の少なさに泣いて、あこがれの都会暮らしの厳しさを知って、同期に騙されて出し抜かれて手柄を横取りされたところだった。  悔しくて悔しくて、意地になっていた。走馬灯は死ぬ前に流れなかったが、死んでから自分の死体を見下ろしながら、数々の自分のやりのこしたもしもに気づいた。  そして、今思えば、やり残したことだらけだった。 「おい、あんた逃げるなよ。このままどこか行ったら、それこそ戻れなくなるからな」  アロハシャツが慌てて動き始めた千歳を制止した。  生前の身体から完全に抜け出すと、まるで空気みたいに透けている今現在の千歳の身体は軽くて、ふわふわと不安定だった。 「逃げないわよ。このままにしておくわけにいかないじゃない」  千歳はため息交じりに、自分を見つめた。  まだ若すぎる死だった。お肌もつやつやで、女ざかりもいいところなのに、こんな不慮の突然死など、受け入れたくても受け入れることはできなかった。 ***  そもそも千歳は、いつも勝気すぎる性格のせいで、周りには敵だらけだった。  特に会社ではその性格が災いして、ひょんなことを言って先輩社員にえげつないいじめをされて会社にいられなくなり、半年粘ったが上司に辞職を勧められて転職した。  新卒採用ではなくなった途端に冷たくなった社会に、無理やり自分の場所をねじ込むかのように中途採用を勝ち残った。  こんなに頑張ってきた人生なのに、間違いで済まされて死を受け入れることなんて、到底できない。  せめて、きちんと理由を聞かせてもらって、自分が納得するまでは、千歳は引き下がる気も逃げる気もなかった。 「どーすんのよ」  どうせ死んでいるのだからと、夢なら覚めるだけだから、もうどうにでもなれと押し殺していた感情を死神とやら相手にあらわにした。 「どうすると言われましても。こちらでも早急に手続きをしていますので」  返事をしたスーツの死神は、表情に乏しかった。  その無表情に見える顔に、千歳は思い切り張り手を食らわせた。  渾身の一撃だった。  人なんて殴ったことがなかった。しかし、やりきれなくて叩いた後に、またもや涙がぼろぼろと出てきた。もちろん、涙の熱さも伝っている感覚もなかったし、死神を叩いた手も全く痛くなかった。  アロハシャツはやっちまったという顔をしたのだが、叩かれた本人であるスーツの死神は、叩かれたことに驚きもしない表情のままだった。  しかしなぜか、死神の感触は千歳に伝わってきた。――人のように、温かいぬくもりと感触が。  その生きている生き物の感触に、千歳は泣いたのだ。たった今手放してしまった生命を感じて。 「人の人生終わりにさせておいて、悠長なこと言ってんじゃないわよ」  まじかよ、とアロハシャツの死神が千歳を凝視した。死神をひっぱたいた人間なんて、そうそういないというのが、顔に油性ペンで書いてあるかのようだ。 「とりあえず死神。俺、次の現場派遣の予定入っているから、行くわ。あと頼むよ」 「わかりました、死神さん。この件は引き継ぎしますが、また何かあれば連絡しますね」  引っ叩いた後に、所在なさそうにして震えていた千歳の手のひらをそっと握って、スーツの死神は、アロハシャツの死神を送った。 「八田千歳さん、とりあえず、お話ししましょう」  スーツ姿の死神は、千歳の手を離した。その温かさがやけに生々しく千歳に残った。
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