彼の魅力的なあの狭間

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 今日、軍隊に取られていたあの人がここ伏見 に帰って来る。  待ち遠しかった様な、一瞬だった様な、この一年の生活が物足りなかったのは確かだ。  その彼が帰ってくる。  あぁ、遠くに姿が見える。朝から待ち続けていた彼は昼を過ぎた頃に帰ってきた。  だが彼が見えた時、私は絶望した。 「ただいま~帰ったぞ!絹!元気にしてたか!?」 「お帰りなさい茂さん。軍隊は大丈夫でしたか?」  彼は恐ろしい変貌を遂げていた。基本は変わっていない。ただ顎が割れていたのだ。以前の様に薄っすらと割れているのではない。三分(1cm)は深くなっているのだ。余りの変貌ぶりに眩暈を感じた程だ。倒れなかった私を褒めて欲しい。 「おいおい、さん付けなんて辞めろよ。俺達の仲だろう?」 「でも貴方と私は・・・」 「そんな事気にするな!昔の方がいい」 「分かりました。茂、それでどうでしたか?」 「問題なかったぞ!教官が厳しいお方だったが思いやりがあってな!ただ顎だけはめちゃくちゃ割れていた!はっはっは」 「あらあら」(貴方も十分割れてるじゃないの!)  私は口に手を当てて笑う。嘘だ。彼の顎で一杯一杯なのに他人で笑えるか。 「早速で悪いが上がってもいいか?お前と会えなくて寂しかったからよ。話してえんだ」 「勿論ですよ。ゆっくりして下さい」  私は茂を隙間風の吹く家に上げた。  彼は勝手知ったる何とやらでキシキシと鳴る廊下を歩く。そして彼が居間に入る直前、廊下の奥から暖簾を上げて母が出てきた。 「まぁまぁ、茂君大きくなったわね?絹が15だから、もう16だっけ?少し見ない間にだいぶ変わったわねぇ」  母の視線が顎に向かったのを私は見逃さなかった。 「いやぁ、自分じゃ分からないんですけどね。絹に会いたい思いで必死でした」  私は頬が熱くなる。 「まぁ、お熱い事で。ご馳走様」 「もう、茂ったら」  顎さえ割れていなければと思ってしまう。 「いいじゃねえか。嘘じゃねえんだからよ」 「ふふふ、積もる話もあるでしょう。ゆっくりしてね。何かあれば呼ぶのよ」 「ありがとう御座います。お義母さん」 「ふふ、まだちょっと早いわ」 「あ、これは失礼しました」 「いいのよ、ごゆっくり」  母は奥へと引っ込んでいった。  私は会話の間に冷静さを取り戻す。 「少し座ってて下さい。お茶を入れてきますから。あ、食事は済ませてありますか?」 「絹の飯が食いたくて朝から何も食ってねえんだ。作ってくれねえか?」 「勿論です」 「ああ、楽しみだ」  私は食事の準備ともう一つの理由の為に台所へと向かった。 「はぁ、やっと一人になれた」  茂はいい人だ。友達も太鼓判を押してくれる。でも、どうしてもあの顎だけは、割れだけは、溝だけは、受け入れられないかもしれない。  今私に必要なのは時間だ。少しだけ彼のあの深淵の狭間について受け入れる時間が欲しい。   (時間の掛かる物をゆっくりと用意しよう)  しかし彼は、いや深淵の狭間は許してはくれなかった。 「絹、俺にも何か手伝えることはねえか?」 「大丈夫ですよ。居間で待ってて下さい」 「じゃあせめてここに居させてくれ。絹と少しでも一緒に居てえんだ」  今だけは本当に許して欲しい。ほんの少しの時間でいいから一人の時間を。と思っても彼に伝わらないし言えない。 「仕方ありませんね」  こうなれば作戦変更だ。私は急いで料理を支度し、居間へ運ぼうとする。  茂は重いだろうからと運んでくれた。  だが私はお盆を手渡す際、深淵の狭間が至近距離まで来た時は吸い込まれるかと思ってしまった。 「ふう美味かった。絹の飯が一番うめえな」 「お粗末様です。お茶も入れますね。どうぞ」  私は畳の上に正座をしながら茶を注ぐ。  この居間の広さは6畳程度。真ん中にちゃぶ台と壁際に古びた箪笥、そして天井には白熱電球が吊り下がっている。 「おお、絹は気が利くなぁ」  茂はおいしそうにお茶を飲む。  私はその意味に気付いてくれと心から祈っていた。  ここ、京都では食事の後に茶を出すことは暗に帰ってほしいという意味を持つ。しかし、茂はこの意味に気付いてはくれないみたいだ。ならば気付いてくれるまで出すだけだ。 「あ、お茶が無くなりましたね。どうぞ」 「お?そんなに入れなくていいぞ。腹がたぷたぷになっちまう」  茂はこれで最後だと言わんばかりに呷る様にお茶を飲む。  その時私は目が合ってしまった。そう、深淵の狭間と目が合ってしまったのだ。  奴は私を狭間へ引きずり込まんと誘っている。私はその誘惑を正面から受け止め、何とか耐え続ける。これは時間との勝負。私が目を反らせば次は決して耐えられない。逆にここさえ耐えきればこれ以降も対抗出来る可能性が高い。ならば勝負だ。女は度胸、やってやりますとも。 「・・・ぶふっ」  無理だった。相手は狡猾で正面から戦う気等なかったのだ。顎の間からはお茶が流れている。どんな飲み方をしたらそんな事になるの? 「そういや絹、お前はこの一年どうしてたんだ?何かあったか?」  私が悶々としていると茂が話題を振ってくれる。彼と話していると口下手な私が饒舌になる気がして会話が楽しい。 「何もありませんでした。いつものように起きて仕事をして寝て・・・。茂さんはどうでした?」 「大変だったんだよ。訓練訓練また訓練。この1年で一生分の訓練って言葉を聞いたよ」 「あはは」  茂さんは話を広げてくれる。私はいつもの癖で話始めてしまった。  お茶を出しまくって帰って貰おうとしたけれど失敗した。次の策を実行せねば。  私は唐突に思い出した表情を作る。 「そうでした、私、餅を出していませんでした。今から割ってくるので少し待っていてください」 「絹、水臭い事を言うな。俺がやってやる」  やはり茂は優しい。そう言ってくれる事は分かっていたの。 「お願いします。私はその間に洗濯物を取り込んで来ます」 「ああ、任せておけ。場所はいつもの所か?」 「はい」  そう言って私達は別れた。  はぁ、やっと上手くいった。いくら茂でもあの量の餅を割るのは大変でしょう。自分の顎を割るのとは違うのよ。  そんな失礼なことを考えながら洗濯籠を持って外に出るとなぜか茂がいた。 「茂さん?どうしたの?」 「ああ、餅は割り終わったからな。こっちを手伝いに来た」 「あの量をこんな一瞬で?」 「ああ、少し前に軍で割りまくってな。初年兵の役目ってので慣れたんだ」 「そうなの、ありがとう」  くそう。どれだけ頑張って離れようとしてもくっついてくる。まるでトリモチみたい、餅だけに。  ・・・そんなことはいい、一体どうすればいいの?ほんの1時間いえ、30分一人にしてくれるだけでいいのに。 「これで全部か?」  重たい物を優先的に持ってくれた茂が聞いてくる。 「ええ、居間に運んでおいて下さいな」 「分かった、任せろ。絹は何かするのか?」 「ちょっとご不浄に」 「そうか悪かったな」 「いえ」  私はそれだけ残すとご不浄、分かりやすく言うと便所へと向かった。   「ふぅ、遂に一人になれた」  家事で離れようとしても茂なら付いて来てしまうだろう。こうでもしなければ今頃私は彼の顎と一体化していたに違いない。  やはり一人は落ち着く。少しゆっくりしてから考えよう。  そんな事を思ってゆっくりしていたら扉が叩かれる。 「ちょっと絹!早く出て来なさい!茂さんが貴方が中々出てこないって心配してるのよ!」  そんな!折角一人でゆっくり向き合えると思っていたのに。母が私を追い立てる。  だが私は諦めない。 「ちょっとお腹の調子が悪いの!」 「すぐわかる嘘は止めなさい!便秘なんて経験した事ないって自慢してるの知ってるのよ!」 「分かった!出る!出るから大声で言うのは止めて!」  母は元気で声はいつも大きい。そしてこの家の壁は薄く、少し騒げば隣の家にすら聞こえてしまう。しかも今は茂がいるのだ。聞かれるのは恥ずかしくてたまらない。  私は急いで外へと出て居間に戻る。  茂がばつの悪そうな顔を浮かべている。ああ、終わった。 「その、大丈夫か?」 「はい、ご心配おかけして申し訳ありません」  茂さんは嘘が下手なのは軍では改善してくれなかったらしい。まぁ、顎も悪化させたのだから軍は悪い所なのだろう。そうに決まっている。 「なぁ絹」 「何ですか?」  茂の声は低く悲しそうに聞こえる。 「俺の事は嫌いになっちまったか。それとも新しい男が出来たか?」 「な、何でそんなこと!」 「さっきから一人になりたがってるのを見るとな。茶も帰れって意味で出されてるのかと思っちまってよ」 「それは・・・」  思っていた。思っていたが、そんな意味で出したんじゃない。 「やっぱりか。悪いな、邪魔して。帰るわ」 「あ・・・」  茂は少ない荷物を持ち立ち上がった。そして私には一切視線もくれず部屋を出ていく。 「待って・・・待って!」  私は叫んで走り出し、彼の背中に思いっきり飛びつく。 「うお!?」  茂はバランスを崩しかけるが兵役で鍛えられたのか倒れることはなかった。 「ごめん!でも違うの!茂の事を嫌いになったわけでも、男が出来たわけでもないの!ただ、私は茂の顎が気になっただけなの!」 「は・・・?顎?」 「そう!顎!だって前より溝が深くなってて!それが気になって!少し受け入れる時間が欲しかっただけなの!」 「・・・・・は」 「は?」  私は涙を流しながら心の内をぶちまけた。そして死刑台に立つかのような気持ちで彼の言葉を待つ。 「ははは。なんだそういう事かよ」 「・・・」 「いいか?俺はお前を愛してる。今は帰ってもまた取り返しに来るつもりだったしな」 「そんな・・・」 「そんでお前の目には俺の顎もかっこよく見えるようにしてやるつもりだったんだ」  茂が私を愛していると言ってくれた事が嬉しくて、心に残った。顎と一緒に。  それから私は気が付くと茂の顎を目で追っている。私にとって彼の顎は私の愛を全て吸い込む深淵の狭間になっていた。
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