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月の出ない夜に、一人の男がいた。懐中電灯の明かりの元、ビクビクと怯えた顔であるものを待っていた。夜になると人通りがなくなり、車も通らない道で男がじっと下をうつむいていた。地面、コンクリートの中、そこに何かがある。
コンクリートからむくりと何かが動くのだ。
コンクリートの中からかわいらしい手がつき出てきた。女の子の手だ。男は目を剥いたまま、笑った。
土から這って出るように美しい女の子が出てきた。
武藤(むとう)隆太(りゅうた)は朝から嫌な夢を見ていた。畳の部屋には、朝の日差しがカーテンからうっすらと透けて照らしていた。
うなされていた武藤は顔をしかめて、目を覚ますと木目が浮かぶ天井を見つめたまま「夢か……」とつぶやいていた。ゆっくりと布団から体を起こした。時計は朝の六時を指している。目覚めるにはちょうどいい。よいしょ、武藤は鳴る寸前の目覚ましを止めた。
顔を洗う。歯を磨く。
武藤は背中まである長い髪に櫛を通していく。丁寧に梳けば、さらりとひとまとめにしとく。女みたいな格好になるが、武藤自身、この髪型が気に入っているので切ることはない。
理由は一つだ。理容院に行かなくていいのだ。手間はその分かかるが。
台所に行き、昨日の夕飯の残りと焼いた目玉焼きとインスタント味噌汁と白飯を用意した武藤は、テーブルに座る。食べている姿は無表情である。それが終わると居間の雨戸を開けて、光をいれてやる。庭に洗濯物を干す。パソコンに向かうのだ。
「加賀原(かがはら)先生へ。今日はビデオチャットで話しましょう」とメール。
電話でいいのにと武藤はつぶやいた。武藤はしばらく文字の羅列を作っていく。チャイムが鳴る。
「おはようございます。加賀原先生。今日も元気そうで生きていますか」
ドアを開けたとたん、失礼なことばかり言う、幼なじみの祐樹(ゆうき)がいた。畑仕事で体を動かした後なのだろう。泥の匂いがかすかにした。汗の匂いもする。
「生きているよ。相変わらず」
祐樹はそんな武藤に笑いもせずにあたりを見回す。何かいるような素振りだが、武藤は気にしていない。祐樹はビニール袋に入った野菜を渡す。
「うちで取れた野菜。一応、泥は落としたけどまだついているかもしれないから。食べるときには、洗えよ」
そう言うと、じゃあと言って部屋に出て行った。ビニール袋を開けるとほうれん草の束がたくさんある。武藤は「ありがとう」も言う暇もないと気がついた。
お茶を用意してため息をついた。居間には、明るい日差しが差し込み、まだ目覚めた気が武藤にはしなかった。ぼんやりと腕組みをして、盛り上がった畳の目を武藤は数えていた。考え事をしていたから、か。武藤は黙っていた。
鳥のさえずり、昨今では数が減ったといわれる雀が鳴いている。それだけでここが田舎だとわかる。
「散歩」
武藤はそう言って、立ち上がった。野球帽をかぶり、外は寒の戻りで冷えていたので、ジャケットを羽織る。武藤の目はある一点に向かう。
「出かける」
そう言った。そこには何もいない。鍵を閉める。そうして、まだ力のない朝日に目を細めて、武藤は歩く。決まった場所もなく、うろつくだけである。
坂道を降りる。坂道を上がる。小さな町には坂が多く、路地も多い。大きな道路があれば、小さな道、住宅街が並ぶ道もある。林が生えている道もたまにある。それを感情のない目で武藤は見つめていく。空が白っぽい。霞んでいる。春だと全身から伝わっていく。武藤の頭はぼんやりとした春の騒々しさに満たされていく。
「あっ。加賀原先生じゃないですか」
武藤のペンネームである。振り返ると、知らない男がいた。人の良さそうな顔つきをしている。だれだっけと武藤は考えていると、男は側に来た。
「道路に穴が空いているんです。びっくりでしょう」
「穴?」
「市役所から警察までいろんな人が来ていますよ。あれは見たけど、まるで何かが出てきたような」
ワクワクとした気持ちが男から伝わってきた。男を見つめていた武藤だが、言葉短く、どこですかと問いかけた。大通りに通って、路地裏に面する脇の道らしい。礼を言って武藤は歩く。
後ろから武藤を見つめる男はニヤニヤとした笑いをしていた。武藤は気がつかなかった。
武藤は通りに来た。狭い歩道、四つの道がぶつかる辻の部分にちょうどそれがあった。近所の人や頭を抱えている市役所職員が。武藤はじっとその様子を見つめていた。主婦らしき、年配の女性がなにやら話している。武藤は知り合いではないので、聞き耳をたてていた。武藤の耳には、どうやら朝からこうなっていて、あやうく通行人が落ちそうになったらしいというのが聞こえた。子供がすっぽり入ってしまうくらいの大きさの穴だ。ただ、それだけである。武藤は立ち去ろうとした。が、ある一点を見つめていた。そして自分を恥じるように、うつむいた。
武藤は「どう思う」とひとりになって問いかけた。いつの間にか、武藤の隣には青年がいた。青年は短髪でいかにも眠そうな顔つきをしていた。
「別にたいしたことじゃないさ」
「白木にはそう思えたか」
「やめてくれない。俺はあんたのお守りで手一杯なんだから」
「あれは多分」
武藤は口をつぐんだ。何かを考えているようだった。白木と呼ばれた青年は呆れた顔をしている。穏やかな日差しが寒の戻りのせいか、余計に暖かい。武藤はくしゃみをした。
「花粉症の薬を飲むこと、忘れた」
「ああ。バカだな」
武藤はまた一人になって歩き始めた。町を探索していく。アパートがある敷地に入った。それに迷いなく、入っていく。コンクリートでできたアパートは階段だけで、特に郵便受けがあるだけだった。エントランスがあるわけでもない。武藤は郵便受けを見つめていた。そうして立ち去ろうとする武藤の前に女の子がいた。女の子はニコニコと笑っている。
ワンピース、花柄の赤いものだ。花は桜。全体にあしらわれ、女の子のかわいらしさを表現しているようだった。古風なワンピースである。今時はそんなワンピースは着ないだろう。武藤はじっと女の子を見つめていた。
「麻奈美(まなみ)。何をしているんだい」
初老の男がいた。武藤はじっと、男を見つめていた。男は武藤の視線に耐えかねるように、視線を女の子に向けているように武藤には思えた。それは錯覚だろうか。
「お父さん」
麻奈美は駆けていく。男と麻奈美はしっかり手をつないだ。武藤はそれ以上何も言わない。
「いいんじゃないの。幸せそうで」
いつの間にか白木がいた。白木の顔を見るなり「わからない」と驚きもせずに武藤は言った。
武藤は自分の部屋に戻ると、パソコンに向かって書いていく。神経は高ぶったように文字を打ち込んでいく。首をかしげていた白木はパソコンを見つめていた。
「報告書かよ。あんた、小説家だろう。仕事をしろよ」
武藤は黙っていた。ちらりと白木を見つめていた。白木は何もいわない。お互いの視線が絡み合ったとき、武藤は視線を外した。そうしてパソコンの画面を見つめる。パソコンのデータを保存してから、台所に立つ。白木はいつの間にか、いなくなっていた。
台所でほうれん草を洗い、炒めものを作る。葉は柔らかいのでさっと炒める。残りは茹でて、冷凍庫に積めていく。一人で食べるには大変な量があって、武藤は自然と汗をかいていた。
スマホを持った武藤は祐樹に「ほうれん草、ありがとう」とだけメッセージを送った。
祐樹は「ちゃんと食えよ」とメッセージを返してくれた。疲れた武藤は台所にて簡単な食事を作っていた。白米と味噌汁。ほうれん草の炒めものを食べる。そろそろ、ビデオチャットの時間かもしれない。武藤は食事を終えて、掃除を簡単にした。
『加賀原先生。元気でした』
「私は元気です」
『なら、いいんですが。まあ話しましょうか。どうです』
馴れ馴れしい口調で担当の七原(ななはら)が言う。連載の話だろう。短編とは違って、連載は長期に渡るから編集者と話すのだろう。ぽつぽつと七原が思っていることを話す。ここの表現はよくない。ここはこうした方がいいなど。
ここに疑問を持ったなど簡単に話す。録画をしながら、メモを取る。武藤はあらかた話が終わったときだ。
「そういえば、何か面白いネタなんかありませんか」
「ない」
はっきりいう武藤に七原はつまらなそうな、おしいものを見るような目で見つめていた。七原はそれ以上何も聞こうとしない。
「お疲れ様です」
武藤がいうとビデオチャットが終わった。ビデオチャットが終わると武藤は茶を用意する。一人分。白木が現れて茶を飲んでいく。白木は別にうまそうな顔もせず淡々と飲む武藤に代わり、白木はうまそうに飲む。
「おまえ、あいつ嫌いなのか」
「あいつ?」
「編集者って奴」
「嫌いも好きもない」
「それって心底どうでもいいってことじゃん」
武藤は何か言いたそうな顔をしたが、何も言わなかった。言いたくなかったのかもしれない。緑茶は相変わらず静かに、武藤の顔を映しているだけだった。武藤の冷めた感情は、白木には一向に伝わらないのは確かである。
「おまえ、最高」
ゲラゲラと白木は笑いながら言った。不快感を露わにしない武藤に白木は何も感じないだろうか。
「悪かったよ。おまえ」
ポンポンと白木は武藤の肩をたたいていた
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