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 小説の文章を直していく。武藤はパソコンの前で、さっきのメモを見ながら修正をしていた。書くくらいしかできない武藤を白木は見つめていた。夕暮れ時のほんの少し前。日差しがまだ明るいときだ。武藤は立ち上がっていた。税金を収めることを考えていた。そのついでに、武藤は買い物をする。  武藤は外に出た。野球帽はかぶらない。寒いせいか、ジャケットだけである。春の日差しを浴びながら、武藤は足を動かす。武藤はある視線に気がついた。女の子がいた。アスファルトの地面にチョークで花の絵を描いている。武藤はじっと見つめていた。 「異界の子か」  武藤の唇からそれはあっさりと漏れた。武藤は自分の言っていることが、奇妙であることをわかっていたのかもしれない。女の子は顔色を変えずに、描いていく。桜の柄のワンピースは鮮やかな赤だ。 「異界だったらどうする?」  女の子は急に言った。  静かな時間だった。車が滑る音。トンビが気持ちよそうな声でキュロロと空を回りながら鳴く、それくらいしか聞こえなかった。 「別に何も」  女の子が振り返った。非難するというより、呆れたという形の顔つきだった。女の子はじっと武藤を見つめていたが飽きたのか、また地面に視線を戻した。しゃがんだまま、地面の花の絵はまた咲いていた。 「変な奴」  女の子はつぶやいた。異界とは、どういうところなのか、女の子も武藤もわかっているのだろう。それから慌てた様子で「麻奈美」と初老の男が駆け寄った。女の子はにんまりと笑った。 「驚いた?」 「あっ。うん。でも変質者がいるから、無闇に一人で遊んではいけないよ」 「大丈夫。あのお兄ちゃんと遊んでいた」  武藤は表情を変えずに男を見つめていた。男はなぜか武藤を直視できなかった。まるで責められているような気持ちになったのかもしれない。武藤はそんなつもりもなく、じっと男を見つめていた。 「娘さんですか」 「家内が残してくれたものです」 「失礼ですか。奥さんは」 「生きています」  怯えた顔で返した。武藤はじっとしていた。そのまま武藤は何も言わない。何か考えているようにも見える。また様子をうかがっているようにも見える。  風は冷たく、日差しが暖かいはずが、急に冷え冷えとした空気と変化していた。日差しは偽りの仮面、仮面を剥いだらそこにあるのは冷たい空気があるのかもしれない。武藤の目にはそう映っていた。 「そうですか。またね」  形だけでも武藤は、手を振っていた。男はため息をついた。麻奈美に向かって帰ろうと言った。麻奈美はうなずいた。  武藤はスーパーで税金を払うと、野菜や肉を買う。一人暮らしである。それほどたくさんの食べ物を買う必要性はない。牛乳をカゴに入れていると、酒が販売されているコーナーに幼なじみの祐樹が歩いていく。 「よっ」  祐樹に向かって武藤が声をかける。背後からということもあり、祐樹は驚いた顔をしている。武藤は気にせず、祐樹のカゴを見つめる。肉と野菜とビールが入っている。 「焼き肉でもするのか」 「ああ」  祐樹は認める。祐樹の言葉に武藤は表情すら変えない。 「野菜を食えよ」 「大丈夫。うちは農家だ。いやというほど、野菜は食っているさ」 「そうか」 「おまえはどうだよ。こんなひょろひょろではダメだ。もっと肉を食え」 「ありがとう」 「なんで礼をいうんだよ」 「ああ、なんとなくだ」  武藤の言葉に祐樹はちょっとだけ困った顔をした。祐樹は悩んでいる様子だった。武藤は何も言わない。 「おまえ、本当に武藤だろうな」 「そうだよ」  ふっと武藤は笑った。何を言っているのかとバカにするつもりだった。笑ってやることが幸いにも真実味を帯びた回答に見えた。武藤はまた無表情のまま、祐樹に「じゃあ」と立ち去る。祐樹はそんな武藤を食い入るように見つめていた。武藤は祐樹をどう思っているかと、祐樹は問いかけたくなった。 「やっぱり、さ。おまえはバカだろう」 「バカ?」  白木が言った。白木は武藤の隣にいながら、じっと武藤を見つめた。 「本当のことを言えばいいのに」 「本当だ」  それ以上武藤は言うことなどないという。白木は、はい、はいと答えた。武藤は頑なだ。それが、祐樹の心に不信感を募らせていることなど知らない。白木は第三者だからわかるのだが、武藤に教えるつもりはなかった。  自宅に戻ると武藤は荷物を冷蔵庫に入れた。中身のない、寂しい冷蔵庫も食べ物があって、初めて生活感が生まれる。武藤は肉を取り出して、ニラと一緒にいためた。少し多く作った。そうして、小分けにして、明日の分にする。武藤が食事を用意している間、白木の姿はなかった。白木がどこにいるのか、武藤が知っているのかはわからない。  無表情に武藤が食べていく。それだけだった。  また小説を書いていくと思いきや。武藤は本を開いていた。じっと本を読む。文庫本は字が細かい。武藤は黙っている。本のページをめくる。いつの間にか白木がいた。白木は頬杖をついてぼんやりしていた。白木の視線の先には武藤がいる。静かである。夜の気配がひたひたと武藤の周りにある。白木にも同様に。武藤は顔を上げる。雨戸を閉めていく。外は夜で暗闇の中、車のライトと街灯が白く辺りを照らしていた。暗闇の中、確かにいた。麻奈美が。じっと武藤を見つめている。そうして、笑った。笑い声をたてずに。武藤は手を振るが、麻奈美は後ろを向いてそのまま歩いていく。 「さっきの異界の子か」  白木が武藤に問いかける。 「そうだが。何か伝えたいことでもあるのか、わからない」  武藤がいう。なぜか心ここにあらざる言い方だった。 「白木、頼みがある」  にんまりと白木が笑った。それは何か企みがあるような笑い方に似ている。 「異界の子の後をついていけばいいんだな」 「様子を見るだけでいい」  白木に釘をさすと武藤は小説を書き始めていた。白木のことを忘れたようだった。白木は武藤の後ろにまわり、冷たい両手で武藤の目を覆い隠す。冷えている手は、暖かい目玉には気持ちいいのか、武藤の体はこわばらない。 「おまえの目を食って飼い慣らすのも面白いと思っているんだ」 「それは、困った」  ちっとも困った様子ではない武藤がいた。武藤はそっと白木の手を触った。白木は意外そうな顔をした。 「普通の人間ならば怯えるが、おまえがいうと面白い響きになる」  そう白木は言って消えていた。白木が行って、武藤は後ろに倒れた。体が重くなっていた。 「根こそぎ奪ったか」  クックと、笑う白木の声が今にも聞こえてきそうだ。そんな気持ちに武藤はなった。倒れながら無理やり、布団を出して横になる。目がチカチカとしていり。倒れ込むように布団に入ると、武藤は目を閉じた。眠れないが、横になれば次第に力が戻るだろう。風呂も入っていない。寝間着にも変えないせいか、パンツに違和感を持つ。厚い布、柔らかいパジャマと違い、布団になじまないのだ。ゆっくりと布団は暖かくなる。その頃になれば、武藤はようやく眠っていた。  武藤はいやな夢を見ずに、起き上がった。明るい日が雨戸の隙間から漏れている。映写機から出た光のように、一条の光を差していた。ゆっくりと武藤は時計を見た。十時だった。武藤はだるい体を起きあがらせる。  スマホを見ると「生きているか」と祐樹からメッセージが届いていた。武藤は起き上がり、玄関から人の気配がした。そうしてチャイムが鳴った。 「おい。武藤。メッセージを見たか」  ドアの前に祐樹がいた。顔色が悪い。武藤は「寝ていた」と正直に言った。武藤の悪びれもしない態度にいらだつ祐樹がいることを武藤は知っている。 「上がるか」 「そうする」  祐樹は怒りを露わにしなかった。それがせめてもの救いだ。祐樹は居間に座る。急須を取り出して、新しい茶葉を急須に入れる。なかなか湿った茶葉をきれいに落とすのは苦労なことだった。濃い緑は網に張り付いている。底まである。水で流したくなるのを楊子で細かい茶葉をとる。 「心配した」  いきなり武藤に向かって祐樹が言った。 「ちょっと疲れて眠っただけだから、心配することはない」  いつもより多く口を動かす武藤がいた。言い訳に聞こえるだろうと武藤にはわかっている。だが、疑問に持つ前に祐樹は「そうか」とつぶやいた。  茶を出すと祐樹は黙って飲んでいた。祐樹はじっとしていた。辺りをうかがっている。 「いるのか」 「何が」 「そのあいつ」 「さあ」 「まだ付き合っているのはわかっている」  急に怒ったように祐樹が言った。武藤と連絡がつかないときは怒らなかった祐樹がこうして怒った顔をしていることに武藤は動揺しなかった。 「付き合う、付き合わないのは俺の自由だ」 「おまえ」  武藤は黙っていた。祐樹はまだ怒った顔をしている。武藤はわかっていた。白木のことを指していると。祐樹が反対をしたからと言っても、武藤は白木から離れることはできない。わがままだと思えばいいのだと武藤は考えていた。 「おまえ、バカだろう」 「バカ?」 「あいつは味方かなんか思っているけど本当は」 「それ以上、言ってみろよ」  いきなり白木の声が聞こえてきた。白木は壁に寄りかかり、祐樹をにらみつけていた。
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