薄紫色のワンピース

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薄紫色のワンピース

 今日、姉が死んだ。台所で、気に入ってると言っていた薄紫色のワンピースを着て、静かに首を吊っていた。  あと五分早ければと、母は泣いた。姉は家族の誰よりも早起きをして、朝食を作る母が目覚めるほんの少し前に首の縄に身を預けたから、あと五分早ければ救えたかもしれないと、泣いていた。  救えなかったよ。そう言いたくなったから、僕は親族が集まるリビングからそっと抜け出して、二階のベランダで風を浴びていた。遠くの空が、見たこともないくらいに赤かった。  いつ死んでもおかしくなかった。生前の姉を振り返って、僕は思う。  姉は家族に自分の弱みを見せないように努めているみたいだった。親しい友人、確か更川さんだったか、その人にだけは毎晩のように電話をかけていた。電話の内容が隣の部屋の僕に筒抜けだったことを、姉は多分知らなかった。  前田という名前が、電話をしている姉の口から一番聞く言葉だった。前田という男と姉は恋愛関係にあったらしい。しかしそれは半年前までの話で、恋愛関係を解消してからも執着しているのは一方的に姉の方だった。別れのきっかけは、向こうの男に新しく好きな人ができたからだと、布団か何かを殴りながら姉が独り言を言っていた。紫色は、前田の好きな色だった。  相談相手の更川さんは、姉を宥めるのが上手かった。散々泣いていた姉は、彼女と電話を始めるといつの間にか前向きな言葉を口に出すようになる。でも最近の姉は更川さんとの電話が終わってからまた一人で泣き喚く時間が増えていた。更川さんとの時間さえ、姉にとっては自分の一番弱いところではなかったのだと思う。  前田、前田、と縋るような声が明け方まで聞こえてくる日もあった。姉は一回彼の名前を呼ぶごとに壁を叩くから、嫌でも意識してしまう。数えたら、姉はちょうど千と二百回彼の名前を呼んでいた。僕はその前田という男を知らないから、姉がなんでそこまでその男に拘るのか心底理解できなかった。ゲームでも小説でも、気に入ったものにはとことんはまり込む性分の癖に、安易に彼氏なんて作るからダメなんだと思っていた。  きっと彼女は、世界の中でたった一つのものしか愛せない人だったんだろう。人を愛するべき人じゃなかったのかもしれない。もし仮に、前田という男に出会っていなかったとしても、同じように首を吊っていたのかもしれない。  そんなことを考えていると、母親が泣いているのがどうしようもない勘違いのように思えてしまったのだ。救うなんてことはできない。僕だって死んでほしかったわけじゃないけど、人を愛した時点で、姉は多分救われなかったのだ。 「お姉さん、どんな人だった?」  知らない声がして、僕は慌てて後ろを振り向く。同じタイミングで風が部屋の中に向かって吸い込まれるみたいに吹いた。 「誰?」  そこには声と同じく、全く見覚えのない女の子が立っていた。喪服、というか制服っぽい服装で、年齢は僕と同じくらいの高校生に見えた。  親戚にこんな子いたっけな。ふと考えてから、姉の通夜に足を運んで貰っておいて顔も分からないというのは失礼なことだと気づく。 「遠い親戚、なんじゃないかな」  投げやりな彼女の言葉に、僕は少し焦る。 「ごめん。僕、あんまり親戚の顔知らなくてさ」 「ううん。私も君のこと知らなかったもん」  女の子はあっけらかんと言った。その素直さには、なんだか清々しささえ覚える。 「あのさ、ちょっと外行かない?」  軽く首を傾げて、女の子は僕を誘った。本当につい遊びに行くのかと思ってしまうくらいの気さくさに、思わず僕は笑ってしまう。姉が死んだ日に笑う弟は、大層気味が悪いだろうと思ったけれど、女の子も僕を見て声を出して笑っていたので、少し安心した。  女の子の両親は親族の大人達の集まりか何かに出ているらしく、彼女は車で待っておくようにと言われた上で、こっそり外に出たそうだ。高校生になると女の子は反抗期を終えると思っていたからちょっと意外だった。  そういえば、姉は中学生の時からあまり家族を困らせない人だった。僕と同様に内向的ではあったけれど、ちゃんと仲の良い友達を二人は作って、家では楽しい話ばかりしていた。  姉が中学一年生の時、地毛が茶色かった姉を複数の男子が取り囲んで茶化していたのを目撃したことがあった。確か姉は泣いていた。でも、その夜の食卓で彼女が沈んだ顔をした瞬間はなかった。  姉は自分の中で感情を制御するのが上手かった。そこに関しては、僕とはてんで違う。僕は高校生になってから僅か数日で同級生と諍いを起こして学校に行かなくなった。でも僕も姉にならって、食卓では暗い話を持ち出さなかった。だからまあ、うちの食卓で夕飯が不味くなったことはなかった。  僕は姉のそういうところを正直尊敬していた。優しい人間というのは、そもそも自分が抱える闇に気づかせないものなのだと思った。  そんな姉は、今日死んだ。 「へえ、お姉さんって、凄い人なんだね」  川辺まで僕を連れておりた女の子は、石の上を器用に飛び跳ねながら移動していた。僕は足元から目を離さないようにゆっくりと確実に足を進める。 「凄い?」  女の子の相槌に僕は違和感を覚えた。凄い人というのは、もっと器用に生きていられる人のことなんじゃないのかと思った。姉は優しかったけれど、不器用だった。だから多分、死んだのだ。 「凄いよ。最後まで自分を貫いて、貫いて生きてたんだからさ」  僕には女の子がわざと少し的の外れたことを言っているようにしか受け取れなかった。貫いて生きてたんじゃない。曲げられずに死んだんだ。口に出せば水掛け論になりそうで、心の中だけでそう言い返す。 「冷たい」  女の子は靴を脱ぎ捨てて、浅瀬に足をつけた。 「私ね、自殺しようと思ってるんだ」  夕焼けが水面に落ちて、紅茶みたいな色をしていた。少し息を吸い込むけれど、茶葉の匂いはしない。でももしかしたら僕の鼻が悪いだけかもしれない。 「今すぐじゃなくて、いつかなんだけど。自分が終わるときってさ、自分で決めなきゃダメな気がするんだよ。自分がとうになくなってから抜け殻だけで生きてる時間にさ、意味なんてない気がするんだよ」  川の色の正体を確かめるために、僕はズボンの裾を犠牲にしながら川に足を入れる。八月の川は二時間放っておいた後の風呂みたいに生温くて、気構えていた自分が馬鹿みたいだった。 「君なら分かるんじゃないかな。私の考えが間違ってるのかどうか」  やっぱりここに紅茶は溶けてなかった。久々に運動をして疲れたから、松葉杖代わりに女の子の肩に手をかける。熱っぽい。まあ、生きているんだから熱はあるか。 「今、生きてるならそれでいいよ。人間いつか死ぬからさ、体が先でも心が先でもいつかは死ぬんだ。知ってるかい? 心が死にかけてると、助けても満足に言えなくなるんだ。だからその前に必死に叫んで、なんでもいいから喚いて、知らせるんだよ。そしたら、絶対とは言えないけど、誰か……」  朝まで、弱々しく壁を叩く音。なんで救われないのと嘆く声。泣いて、喚いて、姉は、何を待っていたのだろう。  そこまで考えて、頭が真っ白になった。 「違う、違う違う違う」  焦点が合わなくなる。目の前の女の子の丸い輪郭が、何重にもぶれて、触れているはずの手も、中身が抜けたように感覚がなくなっていった。  気づいたら僕は、浅瀬で膝をついて、見ず知らずの女の子の腕の中で声を上げて泣いていた。  僕だけが知っていたんだ。僕だけが。たった五分ぽっち時間を巻き戻したって姉を救えないことも、姉が一人で抱え込んでたことも全部。  救わなきゃならなかったのは、僕だったんだ。 「今君は生きてるから、生きてるからいいよ」  栓が抜けたみたいに、口からそんな無責任な言葉が漏れ出す。 「分かったよ。分かったからね」  ぼやけて何一つ鮮明じゃないところから、宥めるみたいに声がする。 「生きてるんだから、こんなに優しい君は今生きてるんだから、だから死ぬなよ、生きてろよ、馬鹿」  誰に向けているのかも分からない言葉を、僕は馬鹿の一つ覚えみたいに、何度も何度も繰り返した。 「死ぬなよ、姉ちゃん」  名前も知らない女の子は、見ず知らずの僕のために、見当違いな回答しかしていない僕の耳元で、聞いたことないくらい微かな声で囁いた。 「ありがとう。それと、ごめんね」
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