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過去から
†
「足をくずしてくださいね」
座卓の向かい側からコットンを思わせるふわりとした声が言った。不格好に、儀礼的なおじぎをするだけの私に隣から恋人の圭介が耳打ちしてくる。
「 心菜、暑くない?」
私は唇を横に引いたままわずかに首を振った。柱と梁で組まれた日本家屋の奥座敷は、障子と襖を開け放つとエアコンなどなくても涼しい風が通り抜ける。
「水ようかん食べる?」
圭介の気遣いはいつも行動を伴う。出されたまま口を付けずにいるアイスコーヒーにガムシロップを入れて掻き回してくれ、扇風機の角度を私のために調節してくれ、私に向けられる話題のすべてを拾って、母親との会話を繋げてくれている。今は目の前に置かれた水ようかんをひと口大に切りわけている最中だ。ちりん、といい音で釣りしのぶの風鈴が鳴って、気を取られたふりで外を眺めた。
「この辺は静かだろ」
私の視線を追って圭介が言った。涼しげな簾の向こうの風景は濡れ縁に置かれた鉢物と濃い縁取りの窓枠がフレームの役目をして、まるで切り取った絵のように映る。高台にあり奥に雑木林があるせいかほんとうに静かだ。さわさわと風に揺れる庭の木々がどこまでも続いている錯角を起こさせた。
「心菜、リラックス、リラックス」
耳打ちのあと、圭介の大きなてのひらが膝に置いた私の手をぎゅっと握って揺すった。途端に現実が近くなる。誰か、誰でもいいから誰か、私をここから逃がしてください。時間を巻き戻してください。
――どこまで?
現実逃避を願ったそばから、自分はどこへ逃がしてもらおうとしているのか、いったい過去のどの地点まで遡ればいいのか分からなくなる。
「もうすぐお父さんが来ますからね」
向かいから声がして私は再び身を固くする。
「楽にしていてね」
ぎこちなく礼を返し、膝を隠している小花柄のワンピースに意識を落とした。私には似合わない淡い色の服が他人行儀に身を包んでいる。脇に置いたレースのボレロと小振りなバッグも今日のこの日のために揃えた。愛想のない表情を少しでも和らげようと用意したのに、味方になってくれる気はないみたいだ。心細くて、溜息が出た。
「いつもの心菜でいいんだよ」
「……」
誠実な声色に、心がほんの少し解れる。
圭介と出会った一年前のことを思い出したせいだ。
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