過去から

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   あの頃の私は、人生で二度目の恋が終わった現実に漫然と傷ついている最中だった。心が冷えていて、ちょっとやそっとのぬくもりじゃなんの足しにもならない、そんな日々の中にいた。だから、前の男とは外見も性格も対極にあった五つ年下の大学生に特別な何か、衝撃や欲求や、たとえば救いのような感情でさえ抱く余裕はなかった。  前の男は強面で無口で、冷たい雰囲気を持っていた。  すれ違いざまに腕を取られ、聞かれるがままに連絡先を教えた、それが始まりだ。  最初から男のペースだった。男が硬派な外見を裏切る不誠実な人間だったことを突きつけられたのは、約三年半の交際が終わる直前だった。  初時雨の頃だ。  私の職場に男の恋人だと名乗る女が乗り込んできた。浮気相手を片っ端から呼び出していると喚き、七人目の女が私だと、耳を疑うようなことを口にした。突き出された携帯で男と話した。 「いったいどういうこと?」  私の質問に男は面倒そうに言った。 「その女ちょっと頭がおかしいんだ。気にすることないから」  私は女に背を向けながら、早口の小声を落とした。 「でもあなたの恋人だって言ってる」 「いや、そういう関係じゃない。単なる女ともだちだ」 「女ともだち?」 「たまに食事してセックスをする、それだけの関係」  その言葉を反芻していると回り込んできた女に肩を揺さぶられた。これで分かったでしょう、別れるって言いなさいよ。あなたから言いなさいよ。早く言いなさいよ。別れるって!  私はぎょっとした。狂気の形相、なのに目は怯えている。……彼は私のもの。私だけの。私のよ。呪文のように繰り返す声は歪みながら鈍く深く、私を刺した。追い詰められた人間がこんなにも無様で憐れなことに悲鳴をあげそうになる。直視できず視線を外した瞬間、頭の中で何かがカチッと重なる音が鳴った。まさか、信じたくないと動揺しながらも、ほんとうはどこかで疑っていたことが唇から漏れた。 「私はあなたにとってなに、恋人……、それとも今あなたが言った……」  “女ともだち”?  この人と同じ?  心の中で問いかけた。  男は少しも躊躇わず不機嫌に落とした声のまま、これ以上ないというくらいの決定的な答えを口にした。 「そのどっちかで括らなきゃいけないのか? だとしたらおまえはまだ恋人じゃないけど」  恋人じゃない? 私は、恋人じゃなかった、って?  絶望は限界までは振り子のように激しく騒ぐ。けれど振りきれてしまったら無になるだけだ。 「そう、なの」  そんな言葉をくらったのに私は怒ることも詰ることもできなかった。唯、彼は希望を残した。彼は『まだ』と言った。その言葉に私は傷つき、縋ったのだ。 「とにかくこの件は後で。今仕事中だから」  詫びもせず男は自分の日常へと戻っていった。目の前の、こんな風に狂ってしまわなければほんとうはとても美しいはずの女性を私にあずけたまま。
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