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「因数分解は中学でもやったね。二次式、三次式となると展開も難しくなる。まずは復習も兼ねて、基本的な問題を解いていこう」
そう言いながら、先生は生徒達を軽く見渡した。一瞬だけ、目が合う。司先生を見ているのは私だけだ。彼ももちろん、その事を知っている。
今日はあと何回、目が合うだろう。
私がそんな事を考えているなんて知る由もなく、先生は黒板の方を向いてチョークで問題を書き始めた。ひとつひとつが細めで右上がりな、司先生の書く数字の羅列。私は、それを眺めるのが好きだった。
先生が数式を書けばそれを見つめ、先生がこちらを向けば彼を見つめる。ただそれだけを繰り返す間、私は何も考えずにいられた。
自分のこと。これからのこと。その一切を覆い尽くしている深い闇。それを、忘れる事ができた。
そうしてぼんやりと先生を見つめているうち、あっという間に授業は終わった。
「先生」
廊下に出た司先生を追いかけて、私は声をかけた。
「ああ、森村。どうしたんだい?」
振り返った先生が、柔和な表情を見せる。
「あの、またわからないところ、教えて欲しいんです」
眼鏡の奥を、じっと見つめる。彼は、少しだけ困った様子でポリポリと頭をかいた。
「そう、か。わかった。教室で待っててくれるかい?少し片付ける事があるから、その後でよければ」
きっと忙しいんだろうな。それはわかっていたが、私は自分勝手に喜んだ。
「はい!待ってます。いくらでも」
「はは……。大丈夫、そんなに待たせないよ。じゃあ後で」
先生は優しくそう笑って、ゆっくりと踵を返した。
窓から射す真夏の光を背に受けて、歩いていく先生。その姿が見えなくなるまで、私はひとり、廊下に立ち尽くしていた。
誰もいなくなった教室で、シャーペンで数式を書くカリカリとした音だけが響く。私と司先生は、机を向かい合わせて座っていた。幸せというものを感じる気持ちが私に残っているのなら、今がまさにその一時だった。
「できました!」
私がノートを差し出すと、先生は眼鏡をかけ直してそれを見た。
「どれどれ……。うん。うん、うん。……なんだ、ちゃんと解けてるじゃないか」
「それは、先生の教え方がうまいんです」
「僕の授業をちゃんと聞いてくれてるの、森村だけだもんね」先生が苦笑いする。私は、その笑顔が愛おしくて仕方なかった。「これだけちゃんと理解してれば、テストで良い点が取れるな。……親御さんも、きっと喜ぶよ」
最後の言葉を聞いた途端、明るく笑っていた私は、表情を曇らせてうつむいた。先生はきっと、わざとそう言ったんだ。
「……森村?」
私は、返事をしなかった。
「……もしかして、おうちで何か、あったのかい?」
先生は、きっとなんとなく気付いている。
どうしていつも、解ける問題を教えてほしいと言ってくるのか。
どうしていつも、授業中自分をじっと見つめてくるのか。
どうして、大人しい私がこんなに積極的なのか。
気付いているからこそ、その気持ちの裏にある私の心の影にまで目が届いているんだ。
「何も、ありません」
私はそれだけ言うと、また黙った。
本当は言いたい。助けて、と。だけどそれを言ってしまった時、今の状況よりも事態がさらに悪化するような予感がしていた。だから私はそれよりも、先生に自分自身をもっと見て欲しかった。それこそが、私を救うことになる唯一の希望だと信じていた。
「そうか……。もし、僕で相談に乗れる事なら、なんでも話してくれていいからね」
先生は優しくそう言うと、黙ったままの私の肩へ、とても控えめに触れてくれた。
先生の温度が、にわかに伝わる。それが肩を通して心臓にまで伝わったあと、ついには全身へと行き届く。胸の高鳴りとともに、久しく得ていなかった安心感が体を包む。たったそれだけの事で、私は自分の寿命が延びた気すらした。
「……はい」
嬉しかった。精一杯涙をこらえながら、私は先生のぬくもりを噛み締めて返事をした。
司先生。あなたなら、あなたならきっと私を……。
「さあ、今日はもう帰ろうか。先生も、まだ仕事が残っているからね」
その言葉で私の心は、あっという間に再び冷たさを取り戻してしまう。
「はい……。ありがとう、ございました」
また、明日も会える。そう考えて自分を慰める。
「気をつけて、帰るんだよ」
そう告げた先生の顔は、少しだけ悲しそうに見えた。それが、どういう感情のものなのか。私には、はっきりとは分からなかった。
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