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人波から抜け出し、改札を抜けて駅から外に出ると、時計塔に目をやった。
「5時半……」
夏の日の長さが、待ち受ける夜の恐ろしさを少しだけ緩和してくれるのは、とても些細な救いだった。
マクドナルドから笑いながら出てくる、私と同じくらいの年恰好の女の子達。自動ドアが開いて一際大きな電子音が耳をつく、パチンコ店。大声で話しながら居酒屋に入っていく、サラリーマンの一団。夕方を迎えた駅前商店街の活気が、私にはとても物悲しかった。言いようのない胸の淀みを抱えたまま、私は行きつけのコンビニに立ち寄ることにした。
家へ近づけば近づくほど、辛い気持ちになる。司先生に2人きりで勉強を教えてもらった今日は、尚更そう感じた。
駅前の喧騒から離れて路地に入ると、滑り台と砂場しかない小さな公園が見えてくる。そこはいつも通り人気が無くて、とても静かだった。
「今日もいるかな」
雑草に囲まれたベンチに腰を下ろすと、コンビニの袋からキャットフードを取り出す。袋の音に反応したのか、いつもの白猫がニャアと鳴きながら、待ってましたとばかりにフェンスの草むらから顔を出した。
「あ、いたいた」
白猫はこちらへそそくさと駆け寄ってくると、身軽にピョンとベンチへ飛び乗った。
「お腹減ってるの?食欲があっていいな」
キャットフードの袋を破り、先っぽからペースト状のエサを絞り出す。猫は再びニャアとひと鳴きすると、舌を出してペチャペチャと食べ始めた。
「君はいっつも一人だね。寂しくないの?私は、寂しいよ」
しばらく猫の食事を眺めていると、生ぬるい夏風乗って、雑草の匂いが私の鼻をついた。少しずつ、日が傾き始めているのに気付く。
キャットフードを食べ終えた白猫は、私の膝の上にやってきて、満足そうに丸くなった。
「人懐っこい子だなぁ。誰にでもそうなの?」
何を聞いたところで、猫が答えてくれるはずはなかった。
私はゴロゴロと喉を鳴らす白猫の背中を、何度も何度も撫でた。
「……そろそろ、行かなきゃ。おうちでご飯作らないと」
そう言いながら、ゆっくりカバンに手をやる。すると、白猫は何かを察知したように、すっと私の膝の上から離れた。
「じゃあ、またね」
私は名残惜しくゆっくり立ち上がると、重たい足取りでようやく家路についた。
「姉ちゃん、今日はカレーなの?」
時刻は、7時になろうとしていた。換気扇を回し、鍋にカレールウを入れて煮込み始めると、弟が鼻をヒクヒクさせながら聞いてきた。
「うん。もうちょっと待っててね」
「やった!カレー大好き!」
隣にやって来て、ピョンピョンと跳ねる。
「でしょう。美味しくできてるからね」
「母さんも、よくカレー作って作ってくれたね」
「うん……。そうだね」
母さんが出て行って、もう一年近く経つ。私は幼い弟が母さんの話をするたび、胸が苦しくなった。優しかった、母さん。どうして、私達を置いて出て行ってしまったのだろう。
最初は、何か事件に巻き込まれたのかと思った。だけど、荷物が綺麗サッパリ無くなっていた事から、母さんが自分の意思で家を出たのは明白だった。
ガチャ!
その時、玄関のドアノブの音がして、私はギクリとした。父さんが帰ってきたのだ。
「お、おかえり」
「おかえり……」
父さんはリビングへ入ってくると、ぶっきら棒にソファに腰を下ろした。
「ああ。……ビールくれ」
帰ってきた父さんの第一声は、いつも決まっていた。
「はい」
弟が冷蔵庫に向かう。父さんは、リモコンでテレビの電源をつけた。賑やかな音が聞こえてくるが、空気は張り詰めていた。
「あの……今日ね、カレー作ったの」
私は、ご機嫌をとるように言った。
「いちいち言わなくても、匂いでわかる。」
父さんはチャンネルを変えながら、冷たくあしらった。
「あ、うん……」
私は、シュンとしてカレーをかき混ぜた。
「あ!」
冷蔵庫を開けた弟が声を上げる。
「なに?」
「ビール、無くなってる……」
それを聞いて、私は青ざめた。
「なんだと?」
父さんが目の色を変えてこちらを見る。
「ご、ごめんなさい。すぐに買ってくるから」
私は慌てて言ったが、父さんは立ち上がって勢いよくこちらへやって来た。
「ビールは切らすなって言ったよな?仕事で疲れて帰ってくる俺に、嫌がらせでもしたいのか?」
「違うの、カレー作るのに夢中ですっかり……」
言い訳をする私の左肩に、問答無用で父さんの右拳が勢いよく飛んでくる。
「いっ!」
鋭い痛みが走り、私は思わず声を出した。
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