命の糸

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命の糸

 梅雨が明けた。だけど、私の心が晴れることはなかった。  真夏の熱射に溶けてしまいそうな午後。教室の窓に映る、雲ひとつ無い空。その鮮やかすぎる濃い青が、胸の奥に重たくのしかかって来る。  綺麗なものを見れば見るほど、悲しく。季節が移ろえば移ろうほど、孤独に。いつからそうなったかも、はっきりとわかっている。母さんが黙って家を出た、あの日から。私の、目に映る世界を慈しむべき感情達は、ゆっくりと、しかし確実に壊死していった。  セミの鳴き声を耳にしながら、ペットボトルのお茶を口にする。凍らせてタオルを巻いてきたおかげで、まだ冷たい。 「次の体育プールかぁ。やだなぁ」 「私は嬉しいよ。泳ぐの好きだもん」 「泳ぐのはいいけど、あいつの視線が嫌なのよ」 「ああ、そっち。あんた胸大きいからね」 「なんで女子校なのに体育の教師が男なんだろ。意味がわかんない」  制服のボタンを上から数えて3つも開け、胸の谷間をはっきりさらけ出すクラスメイト。話し相手の方も、ぶっきらぼうに足を組み、パンツまで見えそうな格好で下敷きを扇いでいる。 「ほんとだよね。この学校、謎に先生の男率高いわ」 「若くて格好良い先生でもいるなら、勉強だって身が入るのに」 「司ちゃんは?結構かわいい顔してんじゃん」  私は、ドキリとした。 「ええ?そうかなぁ。ただ頼んなさそうにしか見えないね」  内心ほっとしながらも、頼りなくなんかない、と心の中で言う。 「プールが終わったら、司ちゃんの授業だね」 「そっか。ちょうど泳ぎ疲れてるから、ゆっくり寝れるわ」 「それな!」  2人が、顔を見合わせて笑う。  私は複雑な心境で、掛け時計に目をやった。  昼休みが終わって、一時間我慢すれば。そうすれば、司先生に会える。  体温とは裏腹に冷え切った心臓が、じんわりと熱くなる。先生のことを考える時だけ、私の命は温度を持った。 「そろそろ行こっか。着替えなきゃいけないし」 「だねぇ。遅れでもしたら、またネチネチ言われちゃう」  クラスメイト達が席を立つ。すると、外のセミの鳴き声が一際大きくなった。  何年も何年も土の中で過ごして、ようやく地上に出れた俺たちは、たった1ヶ月の命なんだぞ。なのに、お前ときたらどうだ。まだまだ生きられるのに、早くも持て余してる。  精一杯声を張り上げて、そう叫んでいるような気がした。  私は、こめかみを伝う汗を拭いながら思った。  代われるなら、代わってあげたいよ。  校舎から見える街並みが、強い日差しを浴びて鈍く輝いている。  私は渡り廊下からそれを見渡しながら、後ろめたい気持ちでプールにやってきた。  ため息をひとつつき、青空の下に姿を現す。 「……なんだ、森村。また見学か?」  案の定、スクール水着に混じって1人だけ制服でやってきた私を見るなり、体育教師が怪訝そうに言った。 「は、はい。すみません。体調が悪くて」  この言い訳が、いつまで通用するのか。そんな事が不安だった。 「見学は欠席扱いだ。あまり多く参加しなかったら、補習だぞ」 「……はい」  本当にそうなったら、どうしよう。それまでに、どうにか誤魔化す方法を考えないといけない。左肩が、にわかに疼く。  クラスメイト達の痛い視線を気にしないふりしながら、私はプールサイドに腰を下ろした。  キーンコーンカーンコーン。  ちょうどその時、無機質なチャイムが鳴り響いた。  キーンコーンカーンコーン。  あと、一時間。あと、一時間。心の中で、何度もそう唱える。 「よし。じゃあ始める。まずは準備体操からだ」  体育座りの膝の上から、何かから隠れるように目だけ出す。そうやって、水面でキラキラと揺れる光を見つめた。  誰かが私を救ってくれるかもしれない。  誰かが、この毎日から私を逃してくれるかもしれない。  叶うはずのない願いを、微かに胸に秘めながら、私は学校に通い続けてきた。  その誰かが、司先生である事を祈りながら。  プールの後の授業は、普段とは打って変わって静かだった。授業が始まってすぐは談笑で騒がしかったが、程なくしてプールの疲れから、次々と生徒達が机に突っ伏したからだ。私にとって、それはとてもありがたい事だった。どれだけ生徒達がうるさくても、司先生はいつも注意しない。だからみんなが寝ている今日は、雑音を気にする事無く、先生を見ていられた。
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