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仇討ち
眠気を堪えながら、セイは石で固められた出口から外に出た。そこは、小川の畔であった。澄んだ水が静かに流れ、細首の水鳥が、太陽の下にその白い翼を輝かせている。
「ああ、陛下」
セイの耳に、甲高い声が聞こえた。声のする方を向くと、可愛らしい農村の小娘が、凛とした出で立ちで立っていた。艶のある黒髪を後頭部で結い上げた様は、何とも麗しく思える。娘は皇帝と目が合うや、地面に跪いて頭を下げた。自らを恨み、憎んでいる民と戦ったセイは、民草に敬意を向けられて大いに安堵した。
——天下には、まだ自分の味方がいるではないか。
「陛下、この先の村はまだ反乱軍の勢力下にありません。休んでいかれてはいかがでしょう」
「ああ、娘よ、そうさせてもらいたい」
セイの中で張り詰めていた緊張の糸は、娘の声で緩み切った。一刻も早く、自身の味方に囲まれた安全な場所で休みたい。そういった欲求が、セイの頭を支配した。
「それでは私が案内致します」
そう言って、娘が近づいてくる。セイは完全に、目の前の娘を信頼しきっていた。人間は追い詰められると、自身に都合の良い情報のみを信じるようになる。今、セイは目の前の娘がよもや敵かも知れない、などという想定ができる状態ではなかった。
「さあ、お手を拝借致します」
「ん、ああ」
言われるがままに、セイは右手を差し出す。娘はその手を、目いっぱいの握力をこめて、強く鷲掴んだ。
「拝借、などとは嘘だ。お前の命を頂く」
途端に、声色に凄みが加わった。娘の右手には、匕首が握られている。気の緩んだセイは、すぐにはそれに気がつかなかった。謀られた、ということを悟った時、匕首はすでに深々とセイの胸に突き刺さっていた。
「お、お前……」
「僕は男だ。お前に死を命じられたタンの弟よ」
セイは、暗闇に沈んでいく意識の中、目の前の刺客の冷たい眼差しだけを見つめていた。
暴君セイを討ち取ったケイカの逸話は、後の世の歴史家によって、「刺客列伝」という書物の中にまとめられた。しかし、復讐を果たした後の彼の足取りに関する史料は何も残っていない。後世の物語では、復讐を果たす女装の美少年、という逸話が人気を博して様々な文学作品に描かれた。明かされなかった彼の末路について、兄と姉の後を追って自殺した、遠くの地へ赴いて商売をして過ごした、或いは不老不死の仙人となった、などの多種多様な創作がなされたのであった。
しかし、史実のケイカがその後、どうなったかは、誰も知らない。
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