始まりの今日

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始まりの今日

 梅雨空のどんよりした雲が重く垂れ込む朝、俺は小鳥のさえずりで目を覚ました。  スマホを見ると、もうすぐ7時。  居間に入ると、ローテーブルでお袋と妹の真由美が並んで朝ごはんを食べている。 「おはよう」と声をかけてお袋の正面にあぐらをかく。 「亮太、しっかり勉強しなさいよ。無駄にお金かかってるんだから」  大学受験に失敗して、この春から予備校に通う俺に、お袋は毎朝、同じことを繰り返す。耳にはタコができていて、本気でうんざりしている。 「なんだ目玉焼きかよ」  テーブルには目玉焼きと味噌汁がきっちり4人分並んでいる。中央には晩ごはんの残りの天ぷらがこんもり皿に載せられていた。 「おにいちゃんに贅沢いう資格ないから。早くごはん食べて勉強したほうがいいよ」  しゃべる時間も惜しむように、真由美はすごい勢いでエビの天ぷらにパクついている。なんでも学校でお腹が鳴るのが恥ずかしいらしく、とにかく胃袋に詰め込んでいるのだ。 「勉強は毎日死ぬほどやってるよ。おまえこそマジメに勉強しろ。1年生だからって呑気にめし食ってる場合じゃないって。ほら遅刻するぞ」  高校に通う真由美の朝は戦争だ。歩いて10分のところにある駅から電車に飛び乗るのだが、ローカル線の本数は少なく、7時半の電車を逃すとアウトだ。だから毎朝1分1秒を争っている。あと5分でご飯を食べ終え、すぐさま家を出ないと間に合わない。こないだまで俺もそうだったからよくわかる。 「目玉焼きがまだ残ってる」 「真由美ちゃん、急がないと間に合わないわよ」  当の本人よりお袋のほうが心配している。  しばらくして、親父がパジャマのままヨタヨタ起きてきて、真由美の後ろにぼんやり立った。ダルマのような体型でパジャマはピチピチ、へそのボタンが吹き飛びそうだ。 「どうしたの。なんだか顔色が悪いみたいだけど」  お袋が心配そうに声をかけた。  朝7時だ。親父がいつも起きる時間だから寝坊したわけではない。 「夢……見た」  寝言のように親父がぼそりとつぶやいた。 「ああぁもう。熱いから、後ろに立たないで」  親父の足元で真由美がうっとうしそうに首を振る。真由美の肩まである髪の毛がバサッと風を起こした。  親父はまるで聞こえていないみたいに棒立ちのまま、 「ととと、とんでもない夢を見たんだ」  一時停止していたビデオが回りだすように、やっとこさ言葉を吐き出した。そしてそのまま、腰を抜かしたようにストンとその場に座り込んだ。 「だから、あたしの後ろに座るのやめて」  真由美は親父の存在に本気でいらついている。 「なんだよ、親父。寝ぼけてんのかよ」  俺が声をかけると、 「大平山が噴火する」  我に返ったように親父が目を剥いた。 「なにバカいってんだよ。夢の話だろ。ってか、大平山は火山じゃないから」  大平山とは、子どものころ何度も遠足で登った家の近くにある山のことで、豊かな緑に覆われている。ごくごく普通の山だ。 「よく聞け。今日の午後3時ちょうどに大平山が噴火する。夢のお告げがあったんだ。実は小学生のときにも同じようなことがあった。あんときは洪水がくる夢で、そんときは布団が濡れた程度で済んだが、今回は規模が違う」 「俺もガキのころ洪水の夢を見て起きたらオシッコ出てた。それ、おねしょだから。どうせ噴火だって、寝てたら特大のオナラが出たっていうオチだろ」 「それより熱いから、早くどっか行って」  真由美は親父から少しでも距離を置こうとテーブルのほうへと体をずらす。  親父のでかい体はエネルギーの消耗が激しいのか、いつも熱い。じめじめしたこの梅雨時期なんか湿気も加わり最悪なのだ。 「これは本当だ。神様が夢に出てきて、これから起こることを教えてくれたんだ。母さん、会社に電話して休むって言っといてくれ」 「は? なんで、わたしにそんなサボりの片棒を担がせるようなことさせるんよ。それになんて言うつもり?」 「なんでもいい。お腹が痛くなったとでも言っといてくれ」 「お腹が痛いって。会社休むのにも使えるんか?」  俺は真剣に聞いた。将来のためだ。 「俺にだけ通用する理由だ。こんなこともあろうかと、ときどき腹に爆弾抱えてるって周りの連中には言ってあるから」  親父はぽっこりと出たお腹をさすった。すごく悪いものが入ってそうで、こうなってはいけないと思った。 「本当に休むの? じゃあ、今日1日、家にいるわけ? そんなぁ」  お袋が眉間にしわを刻み、本気でぼやく。  専業主婦のお袋は誰もいない家で独り優雅に過ごす時間を楽しんでいる。 「じゃあ、あたしも学校休んでいい?」  すぐに親父のたわ言に付き合うことに決めたらしく、さっきまでの嫌悪感漂う態度はどこへやら、真由美がよろこんでいる。いまさら家を出たところで、すでに遅刻だろうが。 「いいぞいいぞ。お、亮太もこの際だから休め。今日はみんな家にいよう」  ついでのように親父が俺にも休めと言い出した。  俺は速攻で頷いた。親父のたわ言を信じたわけじゃない。  ただの現実逃避だ。これでもストレス抱えている。
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