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道理(上)
傘は要らぬと言い残し、岸から跳ねた殿様蛙は、良く肥えた腹で川面を破った。滑らかに揺れる流れを掻いて、手足を伸ばし、脇目も振らずに深みを目指す。
粒の小さな鬱陶しい雨が川面に綾を生み出していてなお、底に並んだ丸石の面を拝めるぐらい澄んでいる、燃えているのかと思うほどに緋色に染まった川だった。
血潮の大河。大河と言って良いだろう、対岸はあまりに遠く、私程度の眼では見通すことも叶わない。
蛙の背負う白一文字が揺らぐ波間に溶け込むと、命を包んだ身体を失い、靄へと変わった志が、何処か遠くへ昇っていった。
彼は何の果実に宿るのだろう。
誰の腹から生まれるのだろう。
どの星の子となるのだろう。
あれだけ気骨の素直な者だ。どんな凡器に入れられようとも、己の御旗を振るだろう。
私も人に誇れるような生き方をしてみたい。せめて自分に自信を持てるぐらいの人生だったと言えるぐらい。
こんな所へ来てしまってから、願うことではないのだろうが。
あのとき、どうして寄り道なんかしてしまったのか。
家では妻も娘も、私の帰りを待っていたのに。
しばらく、変わらぬ川面を眺めるが浮かぶものはなく、広げたままの傘を閉じて手挟んだ。
週末に、娘と一緒に公園へ遊びに行く約束を、確かにしていた。土日とも雨の予報だと聞いた時、雨に煙る公園を娘と2人で、仲良く歩く姿が脳裏に浮かんだ。
それまでは晴れの景色しか思い描いていなかったが、雨の日の良さ、街の雑音を無数の水滴が抱え落ち、乱雑な上に情報過多な視界を淡く暈かしてくれる、雨の日の良さを教えるのも楽しそうだ。
それには、まず、一緒に外へ出ようという気にさせなければな。浮かれ気分で、仕事帰りに子供用の傘を買いに行ってしまった。傘など、いつ買いに行っても良かったのに。
視線を感じて振り返る。遙か遠くに座っている閻魔と目が合った。大人しく、人間の列に並び直す。
前に後ろに並ぶ誰も彼もが、口を開かなかった。
神か仏か(ここにならいるかもしれない)、それっぽい者のお告げを待って、みんな神妙にしているのかと思ったが、そういうわけではなく、本当に会話を忘れているようだ。
こんな所で話し相手が居るわけもないと考えたのか、話したい相手の居る世界に、言葉も表情も置いてきたように見える。
皆、顔はなかった。
船頭の歌う舟歌が、川風に運ばれ抜けていく。
触れた黒髪 温もりが
消えゆく灯火 飾り立て
零れた言葉の 行く末を
目を閉じ送った 時雨雨
川面に抱かれる 月影を
虚無の瞳に 浮かべたい
貴男の居ない 水世など
枯れてしまえと 渡し舟
舟歌にしては涙が多い。それでも、女は乾ききった声で、訥訥と歌い続けるのだった。
「繰り返し、渡すのさ。忘れるまで渡し続けるのさ」
目的地である閻魔の正面、その目と鼻の先にある案内板が、欠伸をかみ殺しながら教えてくれた。
「もしも、二人でここへ来たのなら、片方が舟を漕ぐのが通例でね。先に渡る者は良いが、船に残された者は背中を押してくれる者も無く、渡る決心が付かない者も多いんだ。
迷ってしまえば船は流れに攫われていく。あっちにもこっちにも降りられなくなり、自我を保つために船を漕ぎ出す。
連れを忘れるまで他者を渡し続けるのさ。記憶が流れ、その身が骨に変わったら、ようやく向こうへ渡る決心が付くのだろうな」
地獄のような余生だ。他人事とは言え、同情を禁じ得ない。
「ふぁあ、また迷っている人が居たら教えてくれ」
こんな所で、迷う人が居るのだろうか? もう行き先は決まっているようなものだろうに。
食べたら寝るのが仕事だという案内板は、欠伸を飲み込み、再び眠りについたのだった。
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