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道理(下)
『道理番』
順番が回ってきて、私は閻魔の前に置かれた、たった一つの席へと座る。縦にも横にも巨大な閻魔が、鼻につく粘っこい笑顔を見せて、くいと眼鏡の位置を直した。
「おや。これは珍しい人間ですねえ。生き生きとしていらっしゃる。あなたの名前を教えてください」
質問された。
答えを順に返していく。
「元前 一之です」
「その手にある品物も、ここではなかなか見ることのない物。あなたの持ってきたお土産を教えてください」
「傘です」
「その傘は、何をするための物ですか?」
「肌を突く、骨まで凍えるような雨から、彼女を守るためです」
「うん? ここではそんな酷い雨は降りませんよ?」
「そうですか」
「あなたはここで何を成したいですか?」
「終わらぬ苦しみを課せられ続けられる人々を救いたいと思います。望まずに落ちてしまった人々を解放できればと思っています」
「おお、やはり誤解されていますね。もう、そんな時代ではなくなったのですよ。痛み、苦しみだけでは、魂が浄化されることはないのだと、私共も考えを新たにしたのです」
「そうですか」
「争いもなく、飢餓に苦しむこともない。自由な生活がどれほど幸せなのかを学ぶことで、新しい生でも同じように生活したいと望む。これが本当の浄化なのだと考え、鞭を打つことを止めたのです。向こう岸に渡った皆は、満足そうに生きていますよ」
「そうですか」
「ええ。それでは聞きます。あなたはなぜ、ここに来たのですか?」
私はあらん限りの声を張った。
「妻と娘を返せ、クソ野郎」
閻魔は机の陰から大きなカップを取り出した。
中に手を突っ込むと、ポップコーンを掴み上げ、鷲掴みにした菓子を私の目の前で、髭に覆われた口へと放り始める。
「帰れ」
閻魔は言った。
ポップコーンを むしゃむしゃ やりながら、言った。
「帰れ」
閻魔が私に帰れと言った。
私に向かって帰れと言った。
ただただ帰れと言ったのだ。
気が付けば、舟の上に横たわり、静かな歌を聞いていた。
骨身まで痛む手足を庇い、ゆっくり体を起こしていく。
景色は酷く、酷くゆっくりと変わっていって、しばらくすると、鼻を突く煙の匂いが漂い始めた。
舟の舳先が向きを変える。
遙か向こうに我が家が見えた。
焼けて崩れた我が家が見えた。
(終)
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