Speed Star――

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Speed Star――

 5回裏が終了すると両校の選手がベンチに引き上げ、入れ替わりでグラウンド整備員が方々に散っていく。  夏の全国高校野球選手権大会、その地方予選の、二回戦。  外野の守備位置から戻ってきた僕はベンチ前の柵に腰掛け、グラブを置くでもなくスコアボードを眺めていた。  現在のスコアは7対0――負けているのが僕たちだ。初回に3点を先制され、以降は0点に抑えていたものの、今しがたの5回裏に4点を追加された。  本来ならばこのグラウンド整備による中断を機に流れを変えて、一転攻勢を――といきたいところなのだが、果たして振り向いたベンチ内の空気は重い。それはきっと、先の打者一巡の攻勢によるダメージが、実際の点差以上に大きいからだろう。  野球は9回裏2アウトまで何が起こるかわからない。その言葉を否定するつもりはないが、スコアボードを見るに、それを全面肯定できるほどの楽天家には到底なれそうにもない。そもそも、その9回裏が来るかどうかすら、わからないのだ。  甲子園で行われる全国大会に、コールドゲームは存在しない。だが、僕らが今戦っている地区予選となるとそうはいかない。5回で10点差、7回以降なら7点差がついた時点で、コールドゲームが成立してしまう。  つまりはこの試合、このまま無得点であれば、あと2回しか攻撃の機会は残っていない。  キャプテンが声をかけ、全員でベンチ前で円陣を組む。何とか塁に出て、1点でも多く点を取ろう――努めて明るく声を出し、皆も応えて笑顔を見せるが、それでも払いきれない悲壮感が残っている。  グラウンド整備が終了し、相手方の選手がベンチを出ていくのに合わせて、バットを手に取りヘルメットを被る。次の攻撃は、僕から始まるからだ。  主審の声がかかり、左打席に向かう。監督に目を向けると、片手で小さく「打て」のサイン。小さく息を吸ってから打席に入る。マウンドには初回から続投を続ける背番号10番、つまり、相手方の二番手ピッチャーがいる。  このピッチャーを、僕らはまるで打ち崩せずにいる。打者二巡して、出したランナーは3人だけ。しかもそのうち二人はフォアボールであり、ヒットはいまだ一本。それもシングルヒットであり、つまるところ、僕らはまだ二塁ベースを踏むことができずにいる。  初球、外角のストレートは低めに外れる。  二球目も同じくストレート、これは真ん中低めに決まってストライク。  一度打席を外し、バットのグリップを握りなおす。この打席は、きっと僕の最後の打席になるだろう。この試合はもちろん、高校生活においても。  三球目と四球目はともにスライダーで、そのどちらもがゾーンを外れた。これでカウントはスリーボールワンストライク。絶好のバッティングカウントであるが、そこで投げ込まれたストレートを、僕のバットは捉えきれない。甲高い打球音だけを残して、打球は三塁側ファウルゾーンを転がっていく。  そしてフルカウントからの六球目、外角一杯に投げ込まれたストレートに僕は反応できない。だが、幸いなことに主審の右手は上がらず、フォアボールが宣告される。  この試合初となるノーアウトからの出塁に、俄かにベンチ内では歓声があがる。それでもしかし、塁上からサインを確認しながら僕は思う。この試合、負けるだろう、と。  この点差だ、当然サインは出ない。するするとリードを取ると、案の定牽制球が飛んでくる。すぐさまヘッドスライディングで帰塁し、立ち上がってはユニフォームの土を払い落とす。  あと三十分か、一時間程で、僕らの高校野球は終わってしまう。もしかすると、今のも最後のヘッドスライディングなのかもしれない。再びのセットポジションに合わせ、二歩、三歩とリードを広げていく。  なんてあっけない幕切れなのだろう。すぐそばに終わりが見えてきたことで、酷く冷静になれている自分がいる。  僕らは日本中に数多ある県立高校のいち野球部であり、強豪とは程遠い。目指せ甲子園といったところで現実味はまるでなくて、それでも毎日の放課後は休むことなく部活に励んできた自覚はある。  だが今、僕らの三年間は思いのほかあっさりと終わりが迫りつつある。  この試合はまだ地区予選の二回戦であり、勝ってもベスト16にすら届かないし、各シード校に至っては出てきてもいない。まるで歯が立たない相手校すら決して強豪ではなく、勝ち上がってもいいとこがベスト16止まりだろう。そのチームの二番手ピッチャーですら僕らはまるで打てていなくて、失点のきっかけとなったのも、格上相手への萎縮と緊張感からくるエラーからだった。  僕らは弱い――当然その自覚はあった。  だから勝てないまでも、弱いなら弱いなりに、僕らの死力を尽くしたうえで、届かない勝ちに迫りながら終わっていきたいと思っていた。  それが今、迫るどころか自ら放り出そうとしている。  打席に立つ二番打者は初球、二球目と手を出すことなく見送り、カウントはワンワンの並行カウントになっていた。そのどちらもがストレートで、そうなると、次は外角に逃げていくスライダーあたりでカウントを取りに来るかもしれない。  ベンチは変わらずのノーサインで、おそらく監督は僕らに試合の行く末を任せてくれているのだろう。  今日の僕は、回った三打席全てでヒットを打つことができなかった。  それでも今、かろうじて出塁することだけはできている。これが得点に結びつくか否かはまだわからないし、そもそも僕だけではどうすることもできないともいえる。  セカンド、ショートの守備位置を確認し、次いでバッテリーの様子を伺う。はじめに一球牽制をもらったが、以降の警戒はさほどされていないように思える。  僕らは弱い。もはやそれは変えようもない事実だ。  だけど、だからといってプレイの全てに自信がないわけではないし、今日まで野球を続けてきた以上、胸に抱くプライドだってある。  そして、他でもない僕はチームのトップバッターであり、だからこそ持ち得る武器だってある。  するするとベースを離れリードを取る。何度もやってきたプレイであり、確認せずとも自分が今どのくらいベースから離れているのかは感覚でわかる。  重心を低く、それでいて力は抜いて、視界も広く。なぜだろう、自分でも驚くほどに自然体で、それでいて深く集中できているのがわかる。  これなら、いける。確信にも近い感覚に、思わず口元が緩む。もうすぐ終わってしまうこの試合を、少しくらい掻き回してやろう。そう、圧倒的劣勢であっても、少しくらい噛みついてやりたいじゃないか。  ふっと息を吸い、止める。  野球の一連の動きは、全てピッチャーから始まる。投じる一球が始まりの合図であり、全てのプレーヤーはそれをもって動き出す。だからそれは、きっとコンダクターのタクトなのだ。振り上げ、下ろされる瞬間に始まる壮大なオーケストラの。  なればこそ、不協和音を響かせてやろう。  相手バッテリーのサイン交換が終わり、セットポジションの入っての、数瞬後。  タクトが振られるが早いか、僕はスタートを切る。生か死か――クロスプレーの世界に飛び込んでいく。
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