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幕が下りる――
ゆっくりと息を吸い、吐き出す。
それは、気持ちを落ち着かせるための深呼吸であるとともに、どうしようもない心の鬱屈を吐き出すための溜息でもある。
会社の屋上で一人、手摺にしなだれかかるように身を預けては、今日何度目になるかわからない溜息をつく。それからジャケットの胸ポケットをまさぐっては煙草を取り出し、咥えたそれに風を遮っては火を点ける。
吐き出した紫煙は、暮れ行く街の灯に混ざるかのように、あっという間に紛れていく。
そのままに視線を彼方へと向けてみる。天気の良い日であれば、富士山の見える方角だ。
富士山が見えるといっても、僕の職場は、例えば新宿や丸の内に立ち並ぶような高層オフィスビルというわけではない。社屋は三階建てで、敷地面積もさして広くない。その屋上という、言ってみれば一般住宅よりほんの少しだけ高いくらいの高さでありながら、たまたまその方角に高い建物が無いというだけだ。
ニコチンに含まれる成分が僕の中枢神経を刺激して、ゆっくりではあるが、確実に気持ちを落ち着かせていく。視線はなおも富士を向いているが、夜に染まりゆく空に、彼方の景色は覆い隠されている。
夜の帳が降りる、とはよく言う表現だが、僕はこうして眺める景色を、まるで終幕の緞帳が降りていくようだと思うことがある。一日という舞台が終わり、幕が下りるのだ。もっとも、それを讃える拍手を打ち鳴らしてもカーテンコールはありはしないのだけれども。
背後でドアの開く音が聞こえるが、僕は振り向くことなく煙草を吸い続ける。屋上に出てきたその誰かも、僕に話しかけることなく、かつかつと歩いてくる。途中で一度足音が止まり、次いでライターの着火音。そして、再び歩き出してはすっと僕の隣に収まる。
「下にいないと思ったら、やっぱりここだったんですね」
そう言って四つ下の後輩は白い歯を浮かべる。
「まあね。そろそろいい時間だし、ちょっと一服しておきたくてさ。そういうお前だってそうなんだろ?」
「そうですね。正直ちょっと眠いってのもありますし」
言いながら煙を吐き出す後輩の手には、いわゆるエナジードリンクの缶が握られている。無論、カフェインレスでは無い方のだ。
「先輩も飲みます? 俺のストック分、まだ冷蔵庫に何本か入ってるんで」
「いや、遠慮しとくよ。それに飲みますってお前、後でしっかり料金請求するじゃないか」
「当然ですよ。俺は独身の先輩と違って、稼いだ分全部を自由に使える身じゃないですからね。節約、節約ですよ」
「ああ」思わず苦笑う。
もしここに非喫煙者がいれば、まずもって「だったら煙草を止めればいいじゃないか」と言われてしまうことだろう。だが、僕らはそれを言わないし、言う気もない。なぜなら誰あろう僕自身が、それが言うほど簡単では無いことを重々身をもって知っているからだ。
「なるほどね」
伸びた灰をポンポンと指で叩き落しては、随分と短くなったそれを最後の一吸いとばかりに長めに吸い込み、今にも力尽きそうなそいつを、ポケットから取り出した携帯灰皿でクシャクシャともみ消してやる。
「先輩、戻ります?」
「ああ、今日もまだかかりそうだからな」
社屋前の通りでは、最寄り駅方面へと向かう往来が徐々に増えだしている。きっと一日の終わりに家路へとついているのだろう。
一度大きく伸びをしてから、凝りをほぐすように首をぐるりと回す。
僕らにとっての今の時間は、あくまで夕方の休憩時間であって、一日の終わり足り得ない。決して怠けているわけではないけれど、それでもまるで仕事はなくならなくて、最後に定時で上がったのはいつだっかのか、もはや思い出す気も起きない。
こなす業務は、基本そのほとんどが大手の下請けで、だからこそどんなにクオリティの高い仕事をしたところで、きっと主役には成りえない。せいぜいが
終幕に流れるエンドロールの後半に、その他大勢の内の一人として羅列されるくらいが関の山だろう。
多くの観客はそれを気にも留めないし、だからこそ後に残ることもない。
それでも――彼方の空に、僕は思う。
幕が上がり、下りる。それだけで劇は成立しない。むしろ幕が下りたその後に動き回る人たちがいるからこそ、その翌日の定刻、待ち受ける観衆の前に再び幕を上げることができるのではないか?
「それじゃお先な」
後輩に一声かけて、一足先に僕は屋上を後にする。
階下へと続く扉の前で一度振り返ると、今日もまた、彼方の空に幕が下りていくところだった。
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