白い泡――

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白い泡――

 吹き抜ける風に乗った香りが、私の鼻腔をくすぐっていく。ともすればむずむずとこそばゆいそれを一杯に吸い込み、そのままに大きく伸びをする。すると、伸びた背筋を真新しい空気が通り抜け、吐き出すと同時に、心のモヤモヤをさらっていってくれる。  私は時々、一人で海に来る。  一緒に来てくれる相手はいないのかって? 余計なお世話だ。  一人で眺める午前中の海。そこでは今も数多の波が寄せては返し、うねり、盛り上がっては波頭が崩れ、白い泡が弾ける。  のんびりと海を眺めて深呼吸をすると、それまで胸の内に燻っていた細々とした悩みや不安が、不思議とどうでもよく思えてくる。  肩に羽織ったデニムジャケットの胸ポケットから煙草を取り出し、左手で風を遮りながらに火をつける。途端、口内に広がるメンソールの香りと清涼感がが鼻腔の深いところを抜けていく。  今日もまた、悩みと呼ぶにも足らないようなちっぽけな思いが引き波にさらわれていく。  でも、仮にもこれが「ちっぽけ」なものではなかったら――?  あるいはその想いの重さに引き摺られるように、そのまま私自身がズルズルと引き込まれて行ってしまうのだろうか?   とはいえ、昔から何度も海に来ているが、幸いと今だ誘われたことは一度も無い。ならばそれは詰まるところ、私が思い抱く悩みなんてものはいつだって「ちっぽけ」ってことなんだろう。なるほどしかし、ちっぽけで結構。どうせ私自体ちっぽけな存在なのだ。  靴の裏でクシャクシャと煙草を揉み消し、携帯灰皿の中へそれを放り込む。二十歳の頃の私であれば、そのままポイと投げ捨てていただろうが、あいにく私は現在二十九歳。それもあと一か月余りの猶予をもって、晴れて三十路というなんとも陰気くさい呼び名に変わってしまう。  それは、願ってもいない話だった。  付き合いだしてから向こう丸三年で、今月の頭で四年目に突入した二つ年下の彼。その彼が、付き合って三年の記念日に、輝く石のついた指輪をくれた。  四月生まれの私の誕生石でもあるその石の意味を当然私は知っていたし、それを知った上でその石は今、左手の薬指に嵌まった指輪の台座に抱かれては、目の前の波と同じか、それ以上にキラキラと輝いている。    彼のことが好き。  これは今の私の嘘偽りない想いであり、そしてこの先も変わることのないものだと言える。だからこそプロポーズを受け、なにより左手の指輪なのだ。  なのに、どうして気持ちが晴れないのだろう。  あの日、彼が意を決して告げてくれた言葉を、私は待っていたし、それ以上に望んでもいた。それなのに今、私は眼前に広がる希望よりも、どこからか迫りくる正体不明の不安に怯えている。 「そんな不安、実際にはありはしないよ」と既婚者の友人は穏やかに笑う。だが、ありはしないのかもしれないが、無いという確証もまた、無いのではなかろうか?  誰もこの先の未来を見通すことはできないし、仮にそれを見通すことができたにすれ、確実にそれを防ぐこともまた不可能だ。そして、そんなことは誰あろう私自身もとっくにわかっている。それにも関わらず、分かった上でもこうして海に来ては、悩んでしまう。  マリッジブルーというものがある。  人によって程度や詳細は多岐にわたるらしいが、もしや私の場合、今あるこれがそうなのかもしれない。  考え込む私の視界に、いつものように無数の白い泡が弾けていく。  そんな潮騒にあって、不意に鳴る携帯電話と、響く彼の声。  今度は、彼と一緒に来てみようか。  耳元に響く心地よい響きに目を閉じると、私は二本目の煙草に火をつけた。
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