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壁もといイケメンは、首がもげそうなほどコクコクと何度も頷いた。それでもわたしはもう一度後ろを振り返って、本当に彼とやり取りしている相手が自分であるか確認する。
「佐橋……亜都実?」
後から考えれば、そもそもこのイケメンがわたしのフルネームを知っているはずはない。なかったのだが、わたしは動揺していたし、彼はやはり何故かコクコクと頷きまくった。
さっきまであんな勢いで呼んでいたのが嘘のように、彼はただ一生懸命頷くのだった。その様が不覚にも、不似合いに可愛らしくて。びっくりして思わずおやつを飲みこんでしまった、小動物みたいで。
それがほんの少しだけ、わたしの警戒心を解いたような気がする。とにかく、用件くらいは伺っておこう。わたしに何某かの用事があることは、ここまでくると間違いはなさそうなのだ。
「あの……わたし、何か落としました?」
「え? いや……あの、違うんです、そういうんじゃなくて……」
品の良いグレー系のスーツに、やや長めの黒髪。目は色素が薄いのか、何となく吸い込まれそうな透明感がある。眉は綺麗に整えられて、肌は艶やかにきめ細かそうだった。……暗いし遠いからよくはわからないけど。
加えて気になったのは、男性には珍しいような、華やかでスパイシーな香り。メンズの香水ではないと思う。っていうかこれ、どこかで……
そこまで考えてピンときた。
なるほど、これは、たぶん
「もしかして、京丸百貨店の方ですか?」
「あ! 思い出してもらえましたか?!」
途端に活気を得たように、彼の頬が上気したような気がした。とても素直というか、なんというか……純粋そうに見えるから不思議だ。こんなに世慣れ感のないイケメンは絶滅危惧種だろう。
しかし正直なところ、わたしは思い至っただけで、思い出したわけではないのだった。
「……どこかの営業さんですよね? きっと。」
「そうです! シュザイラです。アミューさんとは売り場が離れてるんですけど。」
シュザイラは香りに定評のあるコスメブランドだ。香水にも力を入れているらしく、店頭には多数のテスターが並んでいて、とにかくいつもいい香りがしている。
やはりそうだ。同じ勤務先の、同じフロアの関係者。それなら顔と名前くらい知られていてもおかしくはなかった。
ただ申し訳ないことに、やはりわたしは彼のことを全く思い出せない。
シュザイラのブースはうちから離れているが、バックヤードへ行くときに目の前を通ることが多い。ほとんどの販売員とは顔見知りだし、営業担当も時々来ている男性なら顔くらいはわかる。彼のことも、一度くらい見かけていてもおかしくはないと思うのだが……最近担当になったばかりなのだろうか。
「ああ、シュザイラさんの。どうりでいい香りがすると思いました。」
他の営業の人はわかるんだけどなぁ、とは言えないので、わたしは何とか話題をひねり出すしかなかった。
「ああ、すみません。さっきテスターの入れ替えをしていて、うっかりスーツに振り撒いてしまったんです。鼻につきますよね。」
「そんな。シュザイラさんの香水、すっごく好みです。いつも売り場の前通る度に欲しくなっちゃうんですよ。でも、わたし如きじゃ香りに負ける気がして。」
わたしは尚もひねり出した話題をこねくり回しながら、思わず苦笑してしまった。
シュザイラの去年のクリスマスコフレがあまりに魅力的で、わたしもつい購入してしまった。けれど、そこに入っていた限定香水は、何となくつけられずにいる。服に着られる、みたいな現象が起こる気がする重厚感だったのだ。
ちなみにシュザイラの販売員は長身揃いで、キツめの美人が多い。たまたまなのかもしれないが、そういうブランドイメージなのだろうとも思う。制服の基本カラーはブラックで、皆とてもよく似合っていて格好いい。基本白でイメージふんわり系なうちとは、対照的とも言えるだろう。
そして、そこで働くわたしにはやはり、シュザイラという壁は高すぎるのだった。ちびだし。
……ところで、落し物をしていないわたしに、彼は一体何の用があるのだろうか。
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