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まあとりあえず、話を合わせておこう。何か連絡事項があって声をかけてくれたのかもしれない。フロアマネージャーの送別会のお知らせなら、抱きついて喜びを表現したいところだ。
職業病のように何となく愛想笑いを浮かべたまま彼の反応を窺うと、何故か相手はじぃっとこちらを見ていた。何かマズいことでも言っただろうかと発言を反芻していると、彼は突然、小首を傾げてこう宣った。
「亜都実さんにぴったりの香りがあるんです。ご紹介したいので、今度早番の帰りにでも寄ってもらえませんか?」
なかなか反則級の小動物感だった。こういう仕草をする動物は、絶対どこかの"ふれあいコーナー"とかで見たことがある。本能的に、突き放せなくなるやつだ。
─── ん?
今、下の名前で呼んだ?
「え……っと。いや、そんな、あの……ありがとうございます……??」
しまった、完全に動揺している。その小動物のような仕草を遥か頭上から投げかけながら突然下の名前で呼ぶというのは、間違いなく禁じ手。情報量が多過ぎるのだ。わたしとの距離を意識して、少し首が下りてきている。それがまた、なんとも。
弁解してみるならば「ありがとうございます」は「ぴったりの香りがあるんです」に対応している。対応しているはずなのだが、この言い方ではもしや、「寄ってもらえませんか」への受諾に聞こえているのではなかろうか。
「よかった。じゃあ、都合のつく日がわかったら教えてもらえますか? これ、俺の連絡先です。」
あー、ほら……。
つられて思わず同じ方向に傾けてしまった首が、また己の滑稽さを強調するようでいたたまれない。
認める。
ちょっと"ドキッ"とかしちゃったことは、認めるけど……。
「連絡ください。俺、待ってますから。」
「え、いや、あの、……」
「あー時間だ。すいません、もう戻らないと。じゃあ、また!」
彼は紙切れを押し付けると、わたしの言葉を振り切るように去ってしまった。
手元には、反射的に受け取ってしまった名刺が一枚。裏返すと、ご丁寧に手書きでプライベート用の連絡先が記入されていた。……予め、だ。
【私用:090-××××-××××】
佐橋 亜都実 27歳。
これは一体、何が起きたのでしょう。
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