ドブネズミ

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 平行線もいつかは交わるらしいなんて戯言にはうんざりだ。階層状のこの都市は正しく交わらない平行線だというのに、何故こうも愚鈍な民衆が多いのか。愚民をそんな甘ったるい幻想で拐かすのは『コートニー』と渾名されるドラッグだ。今日も最下層の路地裏で、端金と交換されている。あんなものは粗悪な"まやかし"だ。しかし彼らにとっては紛れもなく楽園を見せてくれる仙桃なのだろう。童話のマッチ売りの少女が戯れに灯した火の向こうに見た幻覚と何ら変わりがない。相違点があるとすれば、少女の物語の最後のような救いは用意されていないということ。異臭の漂う下水管の中で野垂れ死ぬか、私たちに捕縛されて残された僅かな時間を檻の中で過ごすか、ふたつにひとつだ。  部隊長は成果を上げれば"上"へ行けると宣っているが、それが嘘であることは明白だった。そんな者が過去に居たという記録は一つもないし、仮に"上"へ行けたものが居たとしても、その記録が残っていないというのは違和感しかない。部隊長が白々しい文言で部隊を鼓舞することにも矛盾している。結局はここは平行の階層都市、その最下層。上層の傘のせいで日も当たらない、湿って薄汚れた街なのだ。  今日もカビ臭い路上を重いブーツで踏み抜き、増築され続けて歪になった居住区(蟻の巣)を巡回する。この仕事には何の価値も感じない。意味もない。捨て置かれたこの街に、秩序もルールも有りはしない。存在する必要もない。女王蟻の居ない巣に、終わるために存在している場所に、未来などないからだ。  青年期を過ぎるまでにそれに気付けた私は比較的幸運な方だろう。お陰でこうして仕事にありついて、衣食住に不便することもない。職のお陰で読書(といっても教本か司法書だが)という娯楽もある。ドブの底の中でも、まだ上澄を啜れるだけマシだ。そう理解していても、私の胸にある空虚と不明瞭な憤りが消えたことはなかった。  中毒者に縄をかけるたびに思い出す。幼子を連れた夫婦を乱暴に連行した黒服の男たち。育ての親が泡沫の夢に溺れた挙句、下水に放り込まれるのを見てしまった少女。他人事のような私の記憶。私の原点。おそらくは私の胸に巣食う黒い虫の正体。むしゃくしゃして頭を掻き毟る。いつもの荒々しく羽虫を払うような仕草だった。  自暴自棄か或いは自傷行為に近いのだろう。澱がこびりついた日にはカースト上位の適当な男を引っ掛けて夜を過ごす。酒とタバコとセックス。爛れた時間は決して私の心を癒すことも胸の穴を埋めることもなかったが、無為な時間が流れるままにするよりは良かった。 「なあ、ルシア、俺の女にならないか?」 「は?どういう意味?」 「はあ……ったく、だから俺の嫁になれってことだよ」 バカな男の囁き。ピロートークにしては上出来だが、白々しいことに変わりはない。下心を隠しきれていないバカげた譫言。私がそういうものに辟易していることに、露ほども気付いていない人間に貸す耳など持ち合わせていない。「疲れたから」と言い残し、居心地の悪いベッドで眠った。  何の変哲もない雨の日だった。雨といっても、それは純粋に天の雲から降るものではない。上層の排水が水滴となって落ちてきているだけだ。それでもここに住う人間は雨と呼ぶ。きっと僅かばかりの希望の表れなのだろう。しかしてその日の雨は希望とは真逆のものの象徴と化した。  親子に手錠をかけた。ガチャリと重い音が伽藍堂の頭蓋に響く。よりにもよって、私が。膝をついて項垂れたその姿を、かつての私に重ねる。天井から滴る水が、フィルムノワールの雨に見える。ぶちまけた墨が重力に引かれて伸びるように、私の記憶と視界とを覆っていく。胃酸が食道を焼く痛みが駆け上がる。嫌な臭いが鼻から抜ける。不快感に耐えられなくなった私は、後の処理を部下に任せてオフィスへと戻った。  焼け焦げてドロドロになった頭と身体のまま、部隊長に報告をするために彼の部屋へと向かった。 「現場から離れたそうだな」 「もうお耳に入っていましたか。その通りです。私の都合で現場から離れました。それに間違いはありません」 「まあいい。報告を」 狼狽えることはせず、揃えた四肢と伸びた背筋のまま答える。返答に満足したのか、そもそもこのやり取りにさしたる意味はなかったのか、頬杖をつく部隊長に促されて、出来るだけ簡潔に報告を済ませた。 「報告ご苦労。今回の減点は大目に見よう。お前の成果は群を抜いているからな」 一呼吸の後に再度部隊長の口が開く。 「"上"に行ける日も近いぞ」  空っぽの言葉に、私の中で折り重なった何かが崩れた。気が付けば腰の電気銃を抜いて、その銃口を目の前の男に向けていた。 「貴様の薄っぺらい甘言にはうんざりする」 リミッターを外し、引鉄に指をかける。ざらりとした感触が指先に張り付く。 「嘘に戯言、もうたくさんだ」 轟音が響き、男の頭だったものが消し飛んだ。  バチバチと火花が散り、デュラハンの様相となったサイボーグの配管がうねる。向かい合わせになった壁に赤い同心円が派手に描かれた。 「やっぱりか」 「なあ、見てるんだろ?"上"の野郎共」 認識出来ない向こう側を見上げて、わざとらしく悪態をつく。 「ふう……」  ため息で呼吸を整える。天井にまで飛んだ赤い飛沫が滴る。見上げたままで呟いた声が、空虚に溶ける。 「あーあ、言っちゃった」
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