中谷産婦人科No.1 一章 運命

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 自宅で自分の妊娠の疑いを知った夜、私は特に驚きを感じなかった。  すでに体調の異変には気が付いていた。  数日前、私はデパートのブティックの会計の前で突然目の前が真っ暗になって倒れたのである。  同時に吐き気にも襲われた。  しかし私はそのドラマチックを別段不思議なことと受け止めなかった。  寧ろ、待ち望んでいたことが起きようとしている予感に胸が高鳴ったものだ。  しかしほぼ妊娠が確実であろうことがわかった夜、これから恐ろしいことが起きるような予感も沸き起こってくるのを感じた。  私はゾッとするような気持でこれから一体どうなるんだろうと思案しながら、暗がりの部屋の中で不安が広がっていくのを感じながらもそのまま寝入ってしまったのだった。  そんな翌日、私は美化委員の役割班で、放課後学校に残っていた。  私の役割は、三号館の一階から四階までの窓の閉め忘れや鍵のかけ忘れを点検することだった。  三階の大きく開いた窓を勢いよく閉め、鍵をかけてふうっと一息ついた時、尿意を感じたので、すぐ目の前にあったトイレに駆け込んだ。  すでに誰か入っている様子で、二つのドアが締め切られている。  この階は三年生の教室の前だから、三年生が入っているんだろうなぁと思いながら私も個室の中に入った。  まったく私立なのに今時和式トイレってどうなのよといつもながらに思いながら、いやいやしゃがみこみ、スカートを持ち上げショーツを足元に下げる。  錆びついた汚物入れからは、女の下品な性の象徴のように、どす黒く変色した血のついた汚らしい生理用品が、むきだしで溢れかえっていた。  お嬢様学校なんて嘘だよなぁ~と思いながら、ガラガラとトイレットペーパーを曳いていると、ジャ~ッと流し場で水音が聞こえてきた。    同時に二人連れの先輩のキャピキャピとはしゃいだような可愛らしい声も耳に入ってきた。  やがて水音がぴたっと止まった。  その時、鈴の音のような綺麗なか細い声が、私の耳の奥で思いがけず優しく響いたのだった。  「私、妊娠したの。」  私は一瞬自分のことのようにドキッとした。  同時に、そのしんみりとした声の響きが静まり返ったトイレ内に感傷的な尾を引き、これから始まる会話の展開にドキドキしながら、無意識のうちに聞き耳を立てた。  「えっ、嘘??マジで?」  「あ、うん・・。それでねぇ、お産は中谷産婦人科に決めたんだぁ~。」  えっ?  その緊張感のない歌うような口調と出てきた意外なセリフに私はきょとんとした。  「えっ?何、なんなの?」  もう一人の聞き手の先輩も私と同じことを感じたのだろう。  かなり戸惑っている様子が伝わってくる。  「うん・・。なんかねぇ、中谷産婦人科ってね横浜市でも結構有名な大きな病院でね、北区の外れの三輪山駅の方にあるの。この前ね、診察も兼ねて見学してきたのぉ~。」  ・・あのぉ、いきなり産婦人科の話ですか?いやいや、論点そこじゃないでしょ~と私は呆気にとられながら思った。  「そ・・そんなこといきなり言われてもさぁ、私、相模原市の人間だからわかんないよ~。て、いや・・そういうことじゃなくて、もっとこぅ・・なんつうか緊急事態でしょ?もうちょっと真剣に考えなよっ。例えば、産むってことは母になるってことじゃん?その年で結婚するのかよ?とか学校やめちゃうのかよ?とか相手一体誰なんだよ?とかさぁ・・。てか、あんた彼氏いたのかいっ?つか、あんたそんなおとなしそうな顔して私の知らないところで何やってんだよ~!!妊娠とかほんと、マジなのぉっ?」  かなり頭の中が混乱している模様だが相手の先輩の言葉は、いかにも尤もらしい言い分である。  しかしそんなことにもお構いなしで、    「中谷産婦人科ってね~、入院中の食生活もすごくおいしくて評判がいいんですって~!楽しみだなぁ~。」  私は驚き呆れながらも、彼女の無邪気さの中に徐々に引き込まれていった。  会話だけ聞いているとかなり不思議ちゃんな印象を受けるが、その鈴の音を思わせるような可愛らしい声は、始終しんみりと落ち着いていて、彼女の誠実で優しい人柄を思わせた。  「だから、そうゆうこと、聞いてないからっ!」    「出産予定日は、二月なんだよ~ん。」  「だよ~んっじゃないよっ!もぉおっ!!」  身繕いをすっかり済ませている私は、すぐにもドアを開けて声の主を一目見たいと思ったが、どうゆうわけか金縛りのように体が動かなかった。  あのような屈託のない会話をするような二人なら、先輩だからといって自分に意地の悪い視線を投げかけるようなことはしないだろう。  機転を利かせて、流し場のスペースも譲ってくれるはずだ。  それにも関わらず、何か妙な圧力が私にドアの外へ出ることを禁じていたのである。  やがて話し声がピタッと消え、再び辺りは静まり返った。  私はハッと我に返り、体中からこわばりが消えていくのを感じ、慌ててドアを開けた。  廊下のずっと向こうの方で、ねぇ、退学しちゃうつもりなの?二月とか卒業式のたった一か月前じゃん!という情けない声がわずかに聞こえるばかりであった。  ほんの束の間のことであったが、このトイレでの盗み聞きの一件は、「白昼夢」のような感覚を残した。  しかし私の耳の奥には、彼女の澄んだ優しい声がいつまでもこだましているようだった。  その柔らかい耳障りのいい声の主に惹かれて、私は「中谷産婦人科」という場所に少なからずの興味を覚えたのだった。  あの先輩は、一見キャピキャピしながらも、産むことを前提に落ち着いて話を進めていた。  きっと彼女の中ですでにきちんとした将来設計が建てられているのだろう・・・私はそんな風に勝手に解釈した。  それにしても、すでに奥様の仲間入りをしているかのように、幸せそうに産婦人科の話なんか唐突に始めるあたり、ただ者ではない・・。  私は水道の蛇口を止め、おばさんに銀座の和光で買ってもらった、お気に入りの淡いピンク色のレースのハンカチの刺繍に目を落とし、声の主にソッと想いを馳せた。  早速、地図で調べると自宅からさほど遠くない場所にあることも分かったので、いよいよ「中谷産婦人科」に診察に行くことを決意したのである。
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