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『これはこれは、ようやくお出ましだな。これでやっと私の夜は完成した!』
美優が高らかにセリフをうたう。
ラウルの春日部先輩が勇ましく返す。
『貴様はどんなことをしていてもいい、ただ彼女は解放しろ!お前には人の気持ちが分からないのか?』
後ろでおびえている私に、美優が振り向いて言う。
『お前の恋人の歎願は情熱的だな』
その表情の冷たい事・・・
わたし、美優がここまでできるとは思わなかったわ。
『お願い、ラウル、無駄よ・・・』
わたしは春日部ラウルに、祈るように言う。それを受けて、春日部先輩がドラマティックに語りかける。
『僕は彼女を愛している!少しは僕の気持ちを考えてくれ・・・』
美優がそこにかぶせるように、怒りを熱く乗せてくる。
『私の気持ちを考えてくれた者は、今まで只の一人もいなかった!!』
立ち稽古でも、ストーリーが佳境になればなるほど、その場の空気が緊張に包まれていく・・・
ああ、わたし、やっぱり好きなんだわ。この張りつめた空気、演じることで、世界が変わっていく感覚・・・ひとつひとつのやり取りが、さらに場の緊張を高めていって、クライマックスに向けてどんどん進んでいく・・・
それはまるで・・・
『・・・あなたは私を騙したのね・・・私は盲目的にあなたに心を捧げたのに・・・』
ファントム美優に向かって、複雑な胸の内を吐き出す。
『お前はまた忍耐を私に強要してくるのだな・・・さぁ、選ぶのだ!私か、彼の死か!』
ファントム美優が、わたしに問いかける・・・わたしは・・・ファントムの心の内を想い、嘆き、寄り添わないと・・・
『哀れな闇に息づくもの・・・今までどんな人生を味わってきたの?』
そっと立ち上がり、ファントム美優に近づいていく。それを見守る春日部ラウル・・・それよりも、まわりの見学者たちの視線がまとわりつく・・・
『神様が勇気を下さる・・・あなたに示すわ・・・あなたは一人ぼっちでは無いと・・・』
そう言って、体を硬くして見つめてくるファントム美優に・・・
キスのまねごとを・・・
この瞬間、まわりの見学者たちの空気が揺らぐのが分かる。固唾をのんで見守るっていうのって、この空気感からくるのかしらね・・・
もちろん、クライマックスなのはわかるけど・・・
美優が毎回、この瞬間だけ素に戻るのよね・・・
もしかしたら私もそうなのかも・・・
逆にその動揺が見てる人には、ファントムの心の動きに見えるかもしれないけれど、わたしは何か複雑な気持ち・・・
ファントム美優は数秒後、よろよろと後ずさり、構えていた銃を下ろし、同時に金縛りにあっていたラウルが動けるようになり・・・
下手(しもて)の端にある椅子に倒れこむように座る。
『彼女を連れて行け・・・私のことは忘れろ。
ここでのことは全て忘れるのだ・・・私を一人にしてくれ。
お前達が見たものを全て忘れるのだ・・・
さあ行け・・・そのボートに乗って行け。私はここに残る・・・』
わたしと春日部ラウルが駆け寄ってそっと手に手を取る。その後ろから、半ば吐き捨てるようにファントム美優が声をかける・・・
こちらに視線をまったく向けず、斜め下を見つめながら・・・
『構うな、さあ行け、もたもたするな・・・ちゃんと彼女を連れて行くのだ。
手遅れになる前に・・・さあ、私から離れて、行くのだ!』
「カーット!」
わたしとラウルが上手(かみて)にはけたと同時に、渡辺先輩がカットを入れた。
部室の空気がとたんにゆるむ。ため息がもれて、緊張が一気にとける。
「はい、良いですね。水川さん、最後の、椅子にもたれて逃亡を促すセリフ回し、もうすこし工夫してください。淡々と言うだけじゃ、ふたりが逃げにくいですよ」
「はい、わかりました」
「はい、じゃあ、今日はこのくらいにしましょうか。お疲れさまでした。各人、今日指摘したところを、もういちど読み込んできてくださいね。1,2年セットの通し稽古は、次の月曜にやります」
「「はい」」
「お疲れさまでした」
「「お疲れさまでしたー」」
みんなで挨拶して、今日の部活は終わり。
ふぅ・・・さすがに疲れたわ。ラストのシーンは、やはりものすごく集中しないとできないし、心が動くシーンだから、終わった後に引きずるのよね・・・
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