雛の寝床・奇跡のような時間

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雛の寝床・奇跡のような時間

『雛の寝床』 こんなあたたかさは、知らない。 冷たい床で、痣だらけで、あちこち痛む体を丸めて、部屋の隅っこで眠る。 部屋は散乱した服やら、ゴミやらで、足の踏み場もない。 いつも空腹で、お腹が切なくて、少ししか眠れない。 それが、僕の日常だった。 君の新しい家族だよ、と紹介されたのは、背の高いおじさんと、お兄さん。 僕の親戚らしい。 いつも僕を殴って、食べ残しのお弁当をくれるあの女の人は、もう帰ってこないらしい。警察に捕まったって、おじさんが言った。 僕は物心ついた時から、あの部屋しか知らない。外へ出たことはない。 言葉もまともに喋れない僕を、おじさんも、お兄さんも、可哀そうにと言った。 ちゃんとした生活をしよう。俺達が守ってあげるから、何も心配いらないよ。 優しい言葉を掛けてくれたけど、僕はおじさんとお兄さんを好きになれなかった。 学校という場所に通うことになった。 義務らしい。 勉強なんかしたことがない。何も分からない僕は、特別支援学級というところに通う。 言葉を教えてくれた。文字を、数字を、教えてくれた。 勉強は、ちょっとだけ面白かった。 養護教諭の先生は、男の人だった。 僕は、その先生だけは、好きだった。 おじさんや、お兄さんが、僕の体を触るのは、気持ちが悪かった。 でも、先生に抱きしめられるのは、嬉しかった。 学校を卒業するとき、僕は先生に言った。 先生のうちの子にして。 先生は、児童相談所という場所に連絡して、僕をおじさんとお兄さんのいる家から連れ出してくれた。 僕が先生のうちの子になれたのは、僕が十八歳になってからだった。 初めて先生と一緒に眠った時、僕は思った。 こんなあたたかさは、知らない。 僕の今までの人生には、なかったものだ。 僕は、このあたたかさを忘れないでいよう。 このあたたかさを大切にしよう。   僕を救い出してくれた先生を、ずっと、好きでいよう。   鎖で繋がれた狭い部屋の中で、僕はただ、そう思った。   『奇跡のような時間』 先生、あったかい。 そう言った君を、何処へも行かせたくないと、そう思った。   「いい子にしていたかい? 」 帰宅して、君の部屋の扉を開けたら、君はベッドの上でウトウトしていた。 「また眠っていたの? ちゃんとお昼ごはんを食べたかい? 」 君はただ首を横に振る。 「先生、食べさせて」 甘えた声を出す君が、愛おしい。 「じゃぁ、鎖を外して、リビングにおいで」   君を繋ぐ鎖の鍵は、机の上の宝石箱の中に、いつでも置いてある。 本当は、君は自由なのだ。 でも、君は望んで囚われている。 飼われることに、安心感を覚えるのなら、僕が飼ってあげる。 「このスープ、美味しいね」 スプーンで食べさせてあげたら、君は嬉しそうにそう言った。 「野菜サラダも、ちゃんと食べるんだよ」 キュウリが嫌いな君は、ちょっと嫌そうな顔になる。 「そんな顔しても、かわいいだけだから。ちゃんと食べたら、ご褒美にプリンを作ってあげるよ」 「先生、本当? じゃぁ頑張って食べるね」 君はようやく、自分でフォークを手にして、サラダを食べ始めた。 手のかかる幼児を相手にしているようだけれど、君は本当はとても賢い。 僕の教えたことは、なんでも覚えた。 株をやってみるかい? と、パソコンの使い方を教えたら、君に与えた僅かな資金を、あっという間に何倍にも増やして見せた。   「ビックリ箱みたいだ」 君にそう言ったら、不思議そうな顔をしていたけれど、本当にそう思うよ。   君に選んでもらえて、僕は本当に幸せだ。 いつか、この狭い部屋から出ていく日が来たとしても、僕は幸せだと思う。 君と暮らすこの奇跡のような時間を、ずっと大切に覚えていよう。 
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