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読めない男
「――――」
次に目が覚めた時、そこには見慣れた天井があった。
アパートだ。アパートの自分の部屋に帰って来ている。
布団に寝かされているが、そうなるまでの経緯ははっきりとしない。
身体はひどく怠かったけど、思考の方はびっくるするほど冴えていた。様々な考えや記憶が縦横無尽に頭の中を巡っては、端から処理されていく。
「お、目ぇ覚めたか」
しばらく身動ぎもせずにただただ天井の染みを眺めながら思考を巡らせていると、玄関に近い場所から声がした。耀司だった。
風呂上がりらしい。頭にバスタオルを引っ掛けて、服は下のみ。上半身は剥き出しで、筋肉とところどころ傷跡と、それから鮮やかな絵を背中に引っ提げて部屋を闊歩する。
「医者にも診せたけど、そこまで重度の熱中症ではなかったわ。今日明日はゆっくり身体休めなあかんらしいけどな」
冷蔵庫から缶ビールとスポーツ飲料のペットボトルをセレクトして、枕元までやって来たと思ったら、どかりとそこに腰を降ろした。
「ひどい顔やな。まぁ、当然と言えば当然やけど」
頬に冷えたペットボトルを押し付けられる。
飲むか? と訊かれたけれど、気分でなくて首を横に振った。
「そんなら風呂、入れたろか」
言われて目を剥いた。そんな恥ずかしいことは無理だと思った。
耀司は私の反応を見て小さく笑いながら、冗談、今日はやめとき、と前言を翻した。 からかわれただけかもしれないけど、やめておいた方がいいと言うのは確かにそうかもしれない。風呂場でふらついて足を滑らせでもしたら、打ちどころが悪ければ死ぬことだってある。
視線を下げると借りたあの服はもう身に付けていなかった。そこらから引っ張り出してきたのだろう、ロングTシャツ一枚という出で立ち。
「まぁでも汗が気持ち悪いやろ」
持ってきた缶ビールはプルタブさえ開けないまま、耀司はまた洗面所に消えて行った。部屋は冷房が十分に効いているけど、冷蔵庫ってほど冷やしてる訳じゃない。このままだとぬるまってしまうのに。
そんなことを思っていると耀司は硬く絞ったのだろうタオルの塊を二つ手に、戻って来た。
「拭いたるわ」
「え?」
拭くって何を? 何を言ってるのかよく分からない――――という思いは腕が伸びて来た瞬間に解消された。
「え、待」
私の身体を拭く気だ……!
慌てて身体を起こそうとするけれど、間に合わなかった。制止の声を上げ切る前に、ペロリとTシャツを捲られる。
「や、ひゃっ」
柔らかな肌の上に、白いタオルが滑って行く。
「よ、耀司」
乱暴な動きではない。肌を徒に擦るようなものではなく、そっと拭われる。耀司には似合わない、繊細な動き。
「自分で……!」
身体を引き起こされる。向きを変えられて、耀司の胸に背中を預けるような形になる。私の声は無視されていて、耀司は好きなように私の身体をなぞって行った。
脇腹も腕も、胸のふくらみも全部。
二枚目のタオルに持ち替えて、次は腿の間に手を差し入れられる。
優しく触られるのが堪らなく辛くて、どこか惨めで、やめてほしくてその腕を両の腿で挟んで動きを封じる。別にそこに色っぽい意味合いはない。ただ、手を止めてほしいだけ。
「……こんなこと、しなくても」
「何でや?」
「だって、だって……」
私はこういうことをしてもらう身分じゃない。
耀司の大切な大切なお嬢ではない。
「どうしてこんなに世話を焼くの、どうして今日だって助けに来たの、どうして」
「またそれか」
呆れたような声を出された。そして、私にとっては答えにならない、常套句を返される。
「オレがお嬢を助けるんは至極当然のことやろ」
耀司の行動原理。
私が彼女に扮すれば、耀司は中身が偽物だろうと完璧に時任あやめとして扱う。他から見た時に区別がつかないように、本物のお嬢のために私をどこまでも優先してみせる。でも。
「…………分かってるでしょ、私は耀司のお嬢じゃない」
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