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"お嬢"
「お嬢、行くで」
何とか顔を作り替え終えて、服も用意していたカットソーとスキニーパンツから濃紺のワンピースにした。シンプルなAラインのワンピースだけど、高めに入れられた切り替えの部分には同色のリボンが付けられていて、女の子らしいデザインだと思う。
サンダルに履き替えてアパートのドアを出ると、初夏に相応しい澄んだ青い空と新緑が目に眩しかった。今日は降水確率ゼロパーセントらしい。
「耀司」
カンカン、とヒールで階段を叩きながら、そっと前を進む男に声をかける。
白いワイシャツに、濃紺のスラックス。それだけ見ると大人しいが、金髪がそれらを凌駕して大きな声で存在感を主張しているし、ダメ押しのようにセピア色のサングラスなんかかけるものだから、カタギの雰囲気がどこにもない。
街で見かけたら絶対に目を合わせないようにするし、道の端と端まで距離を取るし、何なら曲がる必要のない角を曲がってでもどんな関わりも持ちたくない。それくらいのヤバ気な空気がある。
「これ、今回はいつまで?」
佐山耀司。時任組に所属する男。
見た目がもう全てを語っているけれど、喧嘩は滅法強いし、腹の中は真っ黒でえげつない手法も厭わないし、社会には馴染まないけれど、組の中ではそこそこのポジションにいるのだとか。
詳しいことは何も知らない。年も知らないし、この世界に足を踏み入れた理由も知らないし、誕生日も血液型も何も。知っていると言えば、時任の狂犬、なんて陳腐な二つ名を付けられていることくらい。
「帰国は一週間後らしいで」
「ふぅん……」
一週間。彼女は南の島でバカンスらしい。羨ましいとは思わない。だって立場が、生きている世界が違う。全く違うものに憧れたり羨みを覚えたりするなんて、無駄なことだと思うから。
「今日はな、このまま真っ直ぐ吉行の家行って、あそこのおっさんに挨拶せなあかんから」
吉行、は時任あやめの叔父の家だ。年に一二回顔を合わせる程度の間柄。
「明日からは“涼子ちゃん”で家出て、向こうでおめかしし」
「……分かった」
アパートの裏手には月極駐車場がある。そこに止められた黒の車。窓ガラスに移り込んだ顔に、内心苦笑する。
丁寧に作り込まれた顔。
透明感を重視して、派手な色は使わない。口紅は朝一とは違って青みがかった柔らかいピンク。けれどふんわり愛らしいイメージにはしていない。
透明感の中に一筋凛とした空気が通うように。弱々しいイメージはない。意思の強さが感じられるメイクを心がけている。
真っ直ぐに伸ばされた鎖骨まである髪は黒色だ。いつでもさらさらで美しいキューティクルを保っているので、そのクオリティを維持するのはなかなかの努力を要求される。
「どうぞ、お嬢」
耀司はいつでも完璧だ。この姿の時は例え誰も見ていなくても自分を“お嬢”として完璧に扱う。
後部座席のドアを開けてもらって、黙々と乗り込む。
自分も、随分上手くなったと思う。他人のフリをするのが。
時任あやめ。時任組組長の愛娘。今は空の上で南の島を目指している彼女。
その彼女に完璧に化け込んで、私は“お勤め”をしなくちゃならない。
身代わりなのだ。影武者なのだ。生きていくためには、そうしなければならなかったのだ。
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