身に纏う匂いすら

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身に纏う匂いすら

「ただいまぁ」  向こうの玄関からその声が響いた時、私は風呂上りで基礎化粧とドライヤーを終えたところだった。すっぴんだからちょっとアレだけど、鏡の中の顔はあやめお嬢様に近い、つまり楡木しのそのものの顔に戻っている。 「ん? どこや、こっちか?」  がさごそと物音がして、壁の向こうから耀司が顔を覗かせる。  そう、壁の向こうから。  耀司と私は同じアパートに住んでいる。あやめお嬢様になりきるためにあれこれ仕込まなければならないからと、隣の部屋を用意された。初めはまぁ用事があれば当然玄関を通って行き来していたのだが、ある時耀司が面倒だと言い放って、いきなり二つの部屋を隔てる壁をぶち破ったのだ。 “大家さんにバレたら、大変なことに”  あんまりな暴挙に唖然としながらそう言ったら、 “部屋ん中なんて覗きに来ぉへんし、ま、バレてもどうとでもなるやろ”  と言い放った。  何でもここの大家は組の息がかかっている人間らしい。  いや、でもバレたら絶対に大目玉だ。そうに決まっている。今のところまだ、知られてはいないけれど。  ということで、二つの部屋はぶち破った壁から行き来できるようになっていた。  掃除して整えたので、まぁ今ではそこそこ連絡口としてまともな形にはなっている。  耀司は来たい時に好きに境界を越えて来るのでプライバシーはあったものではないけれど、それは元より望めるものではなかった。 「飯は?」 「今日はもう済ませたよ」  耀司はコンビニの袋を引っ提げている。弁当でも買って来たのだろう。  そう言えば、最初は敬語を使っていたけれど、邪魔くさいからやめと言われてため口で済ませている。耀司がいくつかは知らないけれど、自分よりずっと年上なことは間違いない。そんな男に呼び捨てにため口で接している自分を、少し不思議に思う。 「風呂上りか」 「うん」  そのまま引っ込んで食事にするのかと思ったら、耀司はこちら側にずかずか上がり込んで来た。 「なんやえぇ匂いするな」 「シャンプーの匂いじゃ?」  と答えると、髪の中に鼻を突っ込む勢いで匂いを嗅がれる。  耀司からはタバコの匂いがした。どっぷりとこの男に染み付いた匂い。 「昨日までこんな匂いやなかった」 「あやめお嬢様が新しいシャンプーに変えたって言うから、私も同じものを」  纏う香りですら、同じにしなくてはならない。少しの違和感も与えないように徹底している。  私は、化ける時は完璧に時任あやめでいなくてはならない。偽物だとは気付かれないように。  そう、このお仕事は楽で簡単なものではない。  単に他人のフリをするのが大変なのではないのだ。  何のために、こんな真似が必要なのか、それをよく考えなくてはならない。  それは時に本人の身代わりとなって、危険を引き受けなければならないということ。  誘拐されたりするかもしれない。その上で口にできないような酷い目に遭うかもしれない。常に犠牲とならなければならないリスクを負っている。  本物のあやめお嬢様を守る為に、害意を持つ人間の目を欺くために、私のような存在はいるのだから。  実際、知らない男に車に引き込まれそうになったことなんかも何度かある。  怖い。怖くて堪らないけれど、でもこれが今の私の生き方。自分で選んだ地獄だから、そこで必死に生きていくしかない。 「新しいシャンプーなぁ……それ、どこ情報?」 「本人から」 「意外とマメに連絡取ってんねんな」 「まぁ、必要最低限は」  基本的にSNSでのやり取りが中心で、向こうから来る連絡を受け取るだけ。それに対する返事はするけれど、こっちから何かを発信することはまずない。 「あの……」  耀司はまだ鼻先を髪の中に突っ込んですんすんしている。そんなに好みの匂いだったのだろうか。 「ひゃっ」  と思ったら、鼻先が耳に当たった。思わぬ刺激に身体が竦む。しかも。 「や、なに」  次は湿ったものが押し付けられた。唇だ、と理解した瞬間には、耳たぶを食まれていた。
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