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あやめ
「涼子ちゃん、今いい?」
台所にあやめお嬢様が顔を覗かせたのは、とある昼下がりのことだった。
「ちょっとお願いがあるんだけど」
彼女が在宅していることからも分かる通り、今日は私はお手伝いとして時任家本陣にいた。
ちなみに彼女は私が身代わりを務めていて、この見た目が作ったものだということは知っているけど、楡木しのという本名は把握していない。多分、倉橋涼子が本名だと思っている。別に不都合はないから、良いのだけど。
「お願い……何でしょうか」
夕飯の仕込みの手を止めて、近くまで寄る。
「あのね、ちょっと代打で人に会ってほしくて。でも会うって言っても何か話をしてほしいとかじゃなくて、物を渡してほしいだけなの。あれこれ会話したりはしなくていいから」
あやめお嬢様は申し訳なさそうな、けれどどこか押しの強い雰囲気でそう頼んで来た。
「大切なものだから、私本人が渡さないとちょっと不自然なんだよね」
「えぇっと、これからですか」
鏡を見ているようだ、とは思わない。それとはちょっと感覚が違う。
とても似ているけれど、絶対的に違う存在。相対しているとよく分かる。
私は彼女じゃないし、彼女も私なんかとは全然違う人間。真似ることはできても、それ以上にはならない。
「一時間後にね、駅前で待ち合わせしてる。準備間に合う?」
「とは思いますが、お相手はどう把握すれば……」
「あ、写真あるある。データ送っておくから」
ちょいちょいと手招かれてついて行けば、私室に通された。木調のシンプルな家具で統一された部屋、ところどころにハーバリウムや風景画のポスカなんかが貼ってあったりする。余計なものがない、オシャレな印象の部屋だ。
「ごめんねぇ、ちょっと打合せが入っちゃって」
これを宜しくね、と小さな封筒を渡された。打合せとやらはどうやらパソコンを通じて済ませるらしい。今時だ。
「私にこんなに簡単に預けてしまって良いものですか」
不安になってそう訊くと、
「いいのよ。だってあなたは私だもの。ね、あやめ」
サラリとそう返された。
彼女にはいつも自身が漲っている。強い意志を感じる。そういうところが自分とは違う。
だから、化ける時はそこのところを強く意識しなければならない。
「洋服、私のクローゼットから好きなの選んで行って。ホント、急にごめんね」
あ、それから、と彼女が言い足す。
「ここの跡は上手く誤魔化しといて」
ちょんちょんと突かれたのは、襟ぐりに隠れるか隠れないかの部分。
何のことだろうと思いながら、ガラス戸に移る自分の姿を見てぎょっとした。
「!」
肌に残る赤い跡。虫刺されと言い訳するには苦しい。
そこにはキスマークがはっきりとあった。
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