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プロローグ 若夫婦の梅鈴堂
チリン、チリン――
鈴が鳴っていた。
はるか古より続く街並みの中に、和の古物を幅広く扱うお店が一軒。
新元号『令和』の由来となることで、日本はむろん海外からも注目を浴びた学問と観光の土地、太宰府。
その片隅にぽつんと佇む黒塗り戸建ての軒先には、紅色、碧色、黄土色。色とりどりの鈴たちが、しだれ桜のごとくに下がり、店の引き戸が開かれるたびに歌声をあげる。
けれども、この骨董品屋――
『梅鈴堂』の戸は、めったに開くことがなかった。
購入客も。
買い取り依頼も。
ほとんどやってはこないのだ。
なぜならば、『梅鈴堂』の顧客とは――
「んーーーーーーーーー、美味っしいっ!」
太宰府天満宮の門前町にて。
大勢の観光客が行き交う中、櫛田綾乃は梅が枝餅をぱくつくなり、声音をあげて目を細めた。
(梅が枝餅って、やっぱり素敵っ!)
心からそう思う。
熱々のお餅の中に、まったりとした甘さの餡子。
食べても食べても決して飽きることがない。魅惑的なお味すぎる。――特に抹茶やコーヒーといっしょに食べると、もう、最っ高!
「あら~、そんなに気に入ってくださいましたか、お客さん」
梅が枝餅を売ってくれた、お店のおばちゃんが声をかけてきた。
「何個でもペロリといけちゃいますもんね。うふふ、お客さんみたいな若いお嬢さんが喜んでくれると嬉しいわあ。――学生さん? 観光で来られたんですか?」
「いえいえ、ざんねん、ハズレです」
綾乃は、垂れてきた長い黒髪を一度かきあげると、
「わたし、地元ですよ? すぐそこの郵便局裏にある『梅鈴堂』の主、櫛田綾乃。今年で二十五歳なんですが、学生さんに見えます? ふふっ――これでも結婚しているんですよ?」
チリン、チリン。
「たっだいま~」
「おう、おかえり」
『梅鈴堂』の暖簾をくぐると、夫は古伊万里の皿を磨いていた。
「って、あんこの匂いがするぞ。おい綾乃、梅が枝餅を食べたな!?」
「当たり~。えっへっへ、美味しかったよ~。ほっぺたが落ちそうだったもの」
「自分だけかよ。くそっ、ずりいぞ!」
「だって光司、仕事が忙しいと思ったんだもの」
櫛田光司、二十五歳。
綾乃の夫にして、同じく『梅鈴堂』の主を務めている。
もともと綾乃の両親が経営していた店なので、名義上は綾乃が経営者ということになっているが、実情は夫婦揃って主人である。――バイトすら雇っていないふたりだけの店で、主もなにもないかもしれないが。
「旦那が汗水垂らして働いているのに、自分だけおやつかよ。あーあ、もういいよ。俺はすねた。ぐれてやるぜ」
「あら、怒った? 怒ったの? 光司、怒っちゃった? ふふっ、膨れた旦那様も可愛いなあ~」
「男に可愛いなんて言うなよ。俺はますます悲しいぜ」
「ごめんごめん。……嘘だよ。ちゃんと持ち帰りで梅が枝餅、買ってきてるから」
綾乃は餅の入ったビニール袋を掲げた。
「おっ、さすが愛妻、分かってらっしゃる。それじゃ一休みしてコーヒーでも淹れるか」
「開店休業状態で、休みもなにもないでしょ。いつもお休みじゃない、私たち」
「それを言ってくれるな。アイスがいい? それともホット」
「アイスかな。今日は暑いから」
おっけー、と言って光司は店舗部分から奥へと引っ込んだ。
『梅鈴堂』は皿や器、掛け軸やひょうたんなど、和製古物が所狭しと並べられている十二畳ほどの店内と、六畳&四畳半にバストイレキッチンがついた家屋部分で成り立っている木造平屋だ。
築年数は三十年近くにもなる。
だが、三年前に改修工事をしたために、さほど古さは感じない。
「お待たせ」
両手にグラスを持った光司が戻ってきた。
身長百七十七センチ、痩せ型ながらも筋肉質の肉体。
浅く焼けた素肌に、長い前髪と切れ長の瞳をした夫は、一見、スポーツ選手のようにも見える。実際、なかなかの好男子ぶりだ。妻の目から見ても、そう思う。……うん、旦那様、カッコいい。
「なんだよ、じろじろ見て。俺にプロポーズでもする気か?」
「それは子供のころから、もう何度もしてるでしょ? ……光司、なんだか背が高くなったように見えたの」
照れ隠しとはいえ、とんちんかんなことを言った。
「もう背は伸びねえよ。俺が大きく見えたなら髪が伸びたんだろ」
「あ、それはあるかも。ライオンのたてがみみたいになってるし」
アイスコーヒーと共に、本日二度目の梅が枝餅を食しながら、綾乃は笑った。
髪といえば、自分も少し髪が伸びてきた。身長百六十八センチの綾乃だが、もはや黒髪はお尻のあたりにまで達している。
「綾乃こそ、美容院行ってこいよ。もうずいぶんご無沙汰だろ?」
「お金がないから、美容院代さえケチっている妻の気持ちが分かりませんか?」
「ぐぬ。……俺、デリカシーなかった?」
「毎日そうだし気にしてないけどね」
「……反省します」
「成長に期待」
成長といえば、互いにずいぶん大きくなった。
光司とは保育園のころからの幼馴染で、高校を卒業するまでずっといっしょだった。
お互いの両親も仲が良かったから、小さいころから『将来、ふたりは結婚ね』なんて言われてきたものだが、――本当にそうなってしまった。もう、光司の両親も綾乃の両親もこの世にはいないが、綾乃は毎朝、四人の霊前に向けて手を合わせるたびに報告している。
(父さん、母さん。それにお義父さんにお義母さん。私、光司と毎日、幸せにやっているからね。)
お金はあんまりないけれど。
そこだけがちょっと難点だ。
富裕層になる望みはあまりない。
夫婦でのんびり生活ができたらそれでいい。
(でもこのままじゃ、その願いも叶いそうにないのが辛いなあ)
アンティークショップとしての『梅鈴堂』が、もうちょっと儲かればいいのに。
(それともうひとつ。……あっちのほうのお仕事も――)
そのとき、戸が開いた。
痩せぎすの、若い男が入ってくる。
チリンチリン、――チリリーンっ……。
鈴が、いっそう激しく鳴った。
引き戸の上に取り付けられている、ひときわ大きな虹色の鈴。
その鈴はサイズだけでなく、形も他のものとは違い、――梅の形をしている。
そう、梅鈴だ。
梅の鈴がいま、歌ったのだ。
それだけで、綾乃と光司は察した。
「いらっしゃいませ」
グラスをテーブル上に置いて、綾乃と光司は接客モードに入る。
痩せぎすの男はにこりともせず、うつむき加減で、低い声を紡ぎだした。
「あのう、ここ……。その――」
「お客様。……理由アリ、ですか?」
綾乃が微笑と共に尋ねると、男は驚いたような顔をした。
なぜ分かった、とでも言いたげだ。――分かるのだ。
入店したとき、虹色の梅鈴が音色を鳴らすお客様。
それは『梅鈴堂』の本来の顧客という合図。
「拝見しましょうか。うちは 理由アリ古物に関することなら、なんでも対応するお店ですよ」
「あ、あの。……僕、噂を聞いてこの店に来たんです。……助けてください! このままじゃ僕、死んじゃいますっ……!」
「お客さま、落ち着いてください。大丈夫です。……古物に関するあやかし、霊障に関する事件事故の類、いっさいがっさい、お引き受けし、必ず解決いたします。――それが『梅鈴堂』のお仕事ですから」
令和の地、太宰府の片隅で営業する和製アンティークショップ、 梅鈴堂の本当の姿であった。
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