第1話(1) あやしげ万葉集

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第1話(1) あやしげ万葉集

「すみません。僕、こういうこと、初めてで……どうしたらいいのか分からなくて……」  おどおどした感じの青年だった。  背丈は光司よりも高く、百八十センチはあるだろう。  なで肩で細身ゆえ、どこか女性的な印象も受ける。  綾乃は彼をリラックスさせるべく、柔和に笑みを浮かべた。 「誰だって、霊的トラブルに遭遇したらそうなりますよ」 「とりあえずお茶でも淹れるか」 「あら、気が利くのね」 「だろ? 任せとけ」  光司が隣室に引っ込み、綾乃は椅子を出す。  青年に着席を促すと、彼は「どうも」とうつむいて腰をかけた。 「それでは改めて本題に入りましょう。わたくしども梅鈴堂はあらゆる霊的トラブルを解決することを生業としております。――ええと、お客様……」 「あ、僕、菊川(きくかわ)といいます。菊川智哉(きくかわともや)。年は二十歳で、この近くの大学に通う二年生です。……それでその、今回は……。半月前に実家の納戸(なんど)を掃除したら、こんなものが出てきたんです」  そう言った菊川が、トートバッグの中から取り出したものは、 「本ですか。それもずいぶん古いですね」  B5サイズの単行本ほどはあるその書籍は、全体が焼けてくすんでいる。  パッと見ただけでも、50年以上は前か、あるいはさらに昔の本だと分かる。  菊川は眉をひそめ、指で本をつまんでていた。汚物でも扱うかのようだ。 「この本を見つけた日から、家族全員が奇妙な夢を見るようになりました」  指先が、――ふるえていた。 「毎晩毎晩、古い和服を身にまとった髪の長い女が出てきて、部屋の中に白い霧がたちこめていくんです。息もできないような、暗い暗い霧の中で、その女は、能面みたいな顔で、――ずっと泣き続けるんです。  しくしく、しくしく。  しくしく、しくしく。  気持ち悪いですよ。  表情ひとつ変わらないのに、涙だけはとめどなく流して。  その夢が家族みんな、3日、続きました。  僕、もう、うんざりして……そりゃ恐ろしくって……」 「その女も、理由(わけ)なく泣くってことはないでしょ?」  光司がお盆を持ってやってきた。  隣室で、お茶を淹れながら話を聞いていたらしい。  綾乃と菊川の間にすっと入り込んだ夫は、お茶を出しながら、 「その女と会話はできるんですかね? 聞いてみました? なんであんたは泣いてるのって」 「いちおうは。……あんた、とは言いませんでしたけど」  菊川は、そんな乱暴な言葉遣いは嫌だとばかりに首を振ってから、 「『どうして泣いているんですか、理由を教えてください』って尋ねました」 「そうしたら、どうなりました?」 「『は、か、ま』……って」  そのとき女は、いっそう激しく、雄叫びのような声で、 「『は、か、ま!!』って怒鳴られたんです。  はかま、  はかまはかま、  はかまはかまはかま……  後はもう、うわごとみたいにそれを繰り返すだけで……」  菊川の言葉を聞いて、綾乃と光司は顔を見合わせた。 「はかまって、あの和服の袴のことか? はかまを持ってきてくれってことか?」 「どうかしら。夢に出てくる女性は、服は着ているんでしょう? ……はかま、ねぇ……」  綾乃は、ちょっと小首をかしげてから、 「菊川さん。その本、拝見しても――」 「も、もちろんです。どうぞ」  菊川は嬉々として綾乃にその本を差し出してきた。  厄介払いができた、せいせいしたという態度だ。  本の表紙には、なにも書かれていなかった。  ページ数は、200ページほどだろうか。  古い紙で作られているためか、分厚く感じる。  綾乃は本の1ページ目を開いた。 『ここにありて 筑紫や何處 白雲の たなびく山の 方にしあるらし』 「和歌だな」 「ええ、万葉集ね。大伴旅人(おおとものたびと)が詠んだ歌よ」  綾乃が断じると、菊川は驚いたように目を見開いて、 「そ、そうですよね。その和歌、万葉集ですよね。僕もちょっとネットとかで調べたんですけど、たぶんそうじゃないかなって――さ、さすがですね。見ただけですぐに万葉集だって分かるなんて!」 「お褒めに預かり、どーも。わたしも伊達に太宰府でこういう稼業をやっていませんから。個人的に日本史や日本文化が好きだというのもありますけれど」 「この手の知識じゃ綾乃は神がかりだぜ。身内びいきだけど、心底そう思う。俺じゃそこまでパッと分からねえもんな」  隣で光司が持ち上げてくる。  褒めてくれるのは嬉しいが、ちょっとくすぐったい。  お客様の前なんだから、自重しなさいって、もう! 「この万葉集、僕ら家族の間でも、最初は価値があるかもって話になったんですけれど。……あの、古い本ですけれど、まさか原本じゃないですよね?」 「残念ながら、さすがにそれはないと思います。万葉集の原本はそもそも発見されておらず、現代に伝わっているのは写本ばかりですから、もし原本が見つかったら国宝ものですよ」 「そ、そうなんですか? いや、でも、もしかしたらこれがその、発見されていない原本だ、とか――そういうオチは……」  ずいぶんとポジティブな発想だ。  先ほどまでは、霊障の元凶としてこの万葉集を忌み嫌っていたはずだが。  あるいはお化け本だからこそ、価値があると信じたいのかもしれないが。 「原本だったら漢文で記されてあると思います。例えばこの、 『ここにありて 筑紫や何處 白雲の たなびく山の 方にしあるらし』  この歌も、原本ならば――」  綾乃は机上のメモ紙を手に取る。  そのまま、サラサラと万年筆を走らせた。 『此間在而 筑紫也何處 白雲乃 棚引山之 方西有良思』 「もしこれが仮に、万葉集の原本ならば、このように書かれてあるはずなんです」 「……す、凄えっ! 本当に凄いです! あ、暗記しているんですか!? 万葉集の原文を!?」 「言ったじゃないですか。うちの綾乃は神がかりだって」 「もう、だからやめてって。ただ好きで覚えているだけなんだから。……とにかく、これが写本だというのはお分かりいただけたかと思います。問題は、この本を持っている菊川さんのご家庭に、どうして女性の幽霊が登場したかということです」 「そ、そうでしたね。本当にそうです。勘弁してほしいです。毎日毎晩、夢枕に立って涙を流され、はかまはかまって言われて。僕、ノイローゼになりそうですよ。……お願いです。助けてください! ちゃんと謝礼はお支払いしますから!」  菊川は、すがるようなまなざしを向けてきた。  澄んだ瞳に、長めのまつ毛だ。なんだか子犬のように見える。 「もちろんお引き受けしますよ。それが仕事だし、こんなに困っているひとを見捨てちゃおけない。そうだろ、綾乃?」 「ええ。ご安心ください。毎夜夢に出る『はかま』の女性の事件。わたしたちが必ず解決してみせます」 「あ、ありがとうございます! お化けを退治してくれるんですね! よかった、本当によかった!」 「退治するかどうかは、まだ分かりませんけれど」  綾乃は小声で付け加えた。  菊川の枕元に立つ女性が、実のところ、祓うべき悪霊なのかどうか。  それはまだ、軽率に判断できないと思ったのだ。――その女性も、なにか事情があって菊川のところに登場しているのかもしれない。話し合いか、あるいはもっと別の、穏健的な手段で解決できる事件かもしれない。そういうことはこれまでにも、ままあったのだ。  だが菊川は、綾乃の話など聞いていない。  瞳に光を灯らせて、満面の笑みだ。 「いや、やっつけてくれるんなら、もうなんでもいいです。夜、やっとぐっすり眠れますよ!」 「眠れない苦労は、よく分かりますけれど」  苦笑しながら言った。  綾乃は一時、コーヒーの飲みすぎで不眠症気味だった。  なので、菊川の気持ちが、少しだけ理解できる。……カフェインを断つために努力したあの日々を思い出すと、いまでも微妙にげんなりする。 「ところで綾乃よ。夢にしか出てこない幽霊となると、どうやって片を付ける?」 「うん、それなんだけどね。この万葉集の写本、中をよく見てみたらさ」  言いながら、ページをめくる。  一枚一枚に、目を走らせた。 「ひとつ、気になるところが出てきたの」 「気になるところ?」  おうむ返しに問うてきた光司に向けて、綾乃は大きく首肯して、 「そこを調べてみたら、女性の幽霊への対処法も見つかるかもしれない」  本当に祓うべき悪霊なのかどうかも。  綾乃は言外にそう言った。  菊川はキョトンとしていたが、光司はさすがに夫婦、綾乃の気持ちを読み取ったらしく、 「分かった。この手の揉め事で智恵が浮かぶのはいつも綾乃だし、やり方は任せるよ。……で、気になるところって具体的にどういうところだ?」 「そうね……。口で説明するよりも、あれを見せたほうが早いかな。――ね、ちょっとお出かけしましょうか。菊川さん、いまからお時間よろしいですか?」 「はい、もちろん。だけど、どこに行くんです?」 「もちろん、事件解決に必要なところです」  綾乃はにっこりと笑った。
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