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第5話(1) 縁切りの神様と異空間
「たまにはこうして、近所を散歩するのも楽しいよね」
「近所といっても由緒正しき太宰府天満宮の門前だけどな」
綾乃と光司は、並んで歩く。
太宰府天満宮へと向かう道である。
お店は本日、休業である。
天気もいい。こんな日には、夫婦で天満宮をお散歩し、あまあまの梅ヶ枝餅にしゅわしゅわの梅サイダー、さらに本来はお土産である願いの岩塩まで買ったりするなど、太宰府名物を青空の下で頬張って歩いてみたいものだ。――と思っていたふたりは、その思いを実行に移したのである。
地元在住でありながら、観光客ばりに街ブラ。
案外、楽しい!
鳥居をかいくぐり、延寿王院の前をゆく。
坂本龍馬や高杉晋作など、幕末の俊傑たちも訪れたという由緒正しい場所だが、中に入ることはできない。綾乃たちは門前から、内部を覗き込むだけだ。
「太宰府って、さすがに歴史上の英雄がよく訪れてるのよね」
綾乃は、さらりと言った。
「西郷隆盛も太宰府を来たことがあるし」
「そうなのか? 俺は初めて聞いたぞ」
「いまはお土産屋さんをやっているお店が、幕末には旅籠を営んでいてね。その宿が薩摩藩の定宿だったんだって」
「へえ、そんな縁で西郷どんが来たわけか。――綾乃って本当に歴史が好きだよな」
「そりゃあ仕事柄、どうしても詳しくなるよ」
「仕事柄か? 結婚前から――いや、小学校ぐらいのときからずっとして詳しかったよな?」
「だって好きなんだもの。しょうがないじゃない」
「俺なんか、昔は徳川家康が邪馬台国にいるって思ってたぞ」
「……それはさすがに、時代が違いすぎない?」
「小学生のころの話だよ。いまはさすがに分かるぞ。少しは勉強したからな」
「じゃ、ここで太宰府歴史クイズ。戦国時代の太宰府、四王寺山の岩屋城で島津氏の大軍に攻められて、降伏勧告をさせながらも最後まで戦い抜いた戦国武将は誰でしょう?」
「ちょっと待て、いきなりレベル高すぎないか? このへんの戦国武将なら、ええと、……そうだ、官兵衛、軍師官兵衛。黒田官兵衛だ、そうだろ!?」
「はっずれー。答えは高橋紹運でした。黒田官兵衛はそのころ、まだ秀吉の家来で九州に上陸さえしていないよ」
「知らねえよ、そんなひと! 綾乃のクイズはマニアックすぎるぜ」
「戦国武将の間じゃ、わりと有名なほうなんだけどな。高橋紹運」
「マニアの言う『有名』はあてにならねえ」
ふたりは軽口を叩き合いながら、
「ね。ここまで来たら天満宮を参拝していこうよ」
「いいな。行こう、行こう」
太宰府天満宮の奥へと、ずんずん進んでいく。
やがて池の上にある橋を渡っているとき、綾乃はふと思い出した。
(そういえば、カップルや夫婦で太宰府天満宮を訪れたら、別れるっていうジンクスがあるんだっけ。……特に、この橋)
そう。
いままさに、綾乃と光司が渡っている橋だ。
この橋には独身女性の神が宿っていて、カップルや夫婦で橋を渡ると、神様がふたりに嫉妬して、その力で別れさせてしまうのだ。これはかなり有名な話で、綾乃の母でも知っていた。
(ま、ただの噂よね。太宰府天満宮を訪れた夫婦やカップルなんて、何万人いるのって話だし。そもそもわたしたちだって、何百回、天満宮に来たか分からないんだから)
そう思いながら、歩いていると。
不意に、どろどろどろ。――と、不思議な音があたりに鳴り響き、空が暗くなり始めた。
「なによ、これ。雨?」
「急だな。……おい、霧が出てきたぞ。なんだ!?」
光司の言う通り、霧が立ち込めてきた。
周囲から人の気配が消えていく。突如、起こり始めた摩訶不思議な事態に、綾乃と光司はお互いの顔を見合いながら、――やだ、近くで見ると旦那様の顔がいっそうカッコいい。どうしよう、胸が高鳴ってきてたまらない。
「ね、光司。雨が降ってきたら、そこの木の下で雨宿りしようね」
「は? いやいや、家に急いで帰ろうぜ。そんなところにいたらずぶ濡れに」
「それが楽しいんじゃない。雨降る木々の下でいちゃいちゃするわたしたちって、どう? たまには水もしたたる良い女になった自分の奥さんを見てみたいと思わない?」
「そう言われても、風呂上がりの綾乃を毎日見てるしなあ」
「つれないなあ。せっかく女のほうから旦那様をお誘いしてるっていうのに」
その瞬間、世界が光り輝き、雷鳴の音が鳴り響いた。
これにはさすがの綾乃も驚き、なになにと曇り空を見上げたのだが、――そのときである。
(もはやおぬしたちは、ここから出られん)
うめくような声が、響いてきた。
(永遠に天満宮の中だけで過ごすがいい)
「なに、この声。また『御縁』のオーナーのいたずら?」
「いや、いたずらじゃねえな。この声はあのオーナーとはまるで違うし、なにより前のいたずらのときはスピーカーめいた声だったけれど、今回のは違う」
「そう言われたら」
これはあやかしの仕業かもしれない。綾乃は察した。
晴天だったのに、突然曇り空になったのも。
周囲からひとがいなくなったのも、あやかしのせいか!
「姿を現しなさい! 梅鈴堂の櫛田綾乃が相手になるから!」
(お断りする。しかし名乗りはさせてもらう)
年老いた女性の声を、逆回転させたような声音だった。
(我が名はチモキヤの神。縁切りの神としてこの橋に生きるもの。……我がいることを知りながら、恋人や夫婦で訪れるものの赤い糸を断ち切ることを、至上の喜びとする神である)
縁切りの神。
まさか、そんなものが本当にここにいるなんて。
綾乃は仰天した。あやかしの所業かと思っていたら、相手は仮にも神じゃないの!?
そうだとしたら、さすがの綾乃たちでも分が悪い。なにしろ神の気は、どれほど下位の神であったとしても、人間の持つ力とは段違いなのだから。
「チモキヤの神様、だって? 縁切りの神――ど、どうしてだよ。なあ、神様」
光司は、噛みつかんばかりに吠えた。
「俺たち、この橋はこれまで何度も通ってきたぜ。それなのに、なんで今回に限って俺たちに声をかけてきたんだ?」
(それは、おぬしの妻のせいよ)
「え。わ、わたし? 光司じゃなくて、わたし――」
綾乃は絶句した。
「なんで!? トラブルを起こすのっていっつも光司のほうで、わたしは尻ぬぐいするほうが多いのに、今回はわたしのせいなの?」
「いっつもって……。綾乃って、俺のことが好きなのかバカにしてるのか、ときどき分かんなくなるんだよな」
「もちろん愛してるよ。愛してるだから、欠点もえくぼに見えちゃうの。もう仕方ないなあ、可愛いわたしの旦那様、っていうか」
「ん。それならまあ仕方ねえなあ」
(そういうところだぞ!)
チモキヤの声が、ひときわ大きくなった。
ひゃあ、と、綾乃たちは、思わず抱き合う。
(縁切りの神の前で、なんたる行いか。神を愚弄するにもほどがある。……まさにそういうところであるぞ。我が前でさんざん愛を見せつけ、さらにそちらの妻は、橋を渡るとき、我が存在のことを、ただの噂だとみくびったであろう。許せん。ビクビクと怯えながら通るカップルや夫婦にはまだ可愛げもあるが、我を見くびるその女には腹が立ったのだ)
「あ。……も、申し訳ありません。でも、その、神様なのに、そんな心の狭い」
(心が狭いからこそ、縁切りの神をやれるのだ)
「ああ、そりゃ違いねえな」
光司はぽんと手を叩いた。
変なところで感心しないでほしい。
(よっておぬしたちは我が怒りを受けるのじゃ。櫛田綾乃、櫛田光司。おぬしたちは、この空間に永遠に閉じ込める)
「この空間に……」
綾乃は周囲を見回した。
どんより雲の下、見慣れた太宰府天満宮の景色。
だが、いつもと違うのは、人間がひとりもいないということだ。本来ならば観光客なり地元民なり、無数の人間で溢れているというのに。つまりここは、太宰府天満宮に見えてじつは違う。チモキヤの神が作り出した異空間ということか。
(そうだ。お前達夫婦が別れるといえば、この空間から出してやろう。そしておぬしたちは、死ぬまで顔を合わせることができなくなるのじゃ。別れると言わない限り、おぬしたちは未来永劫、何百年も何千年も、このいつわりの天満宮の中で生きるのよ)
綾乃と光司は、顔を見合わせた。
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