第1話(3) 夢の中のあやかし

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第1話(3) 夢の中のあやかし

 しくしく……。  しくしく……。  しくしく……。  若い女性の幽霊は、涙を流し続けていた。  頭を垂らしているので、顔はよく見えない。  衣装は、菊川の言う通り時代がかっている。  古めの、やや痛んだ和服だ。正式に言えば、小袖(こそで)だ。  ねずみ色を基調とした地味なものに、花柄の模様が染められている。友禅染めと呼ばれる江戸時代以降に流行した染め方だが、 (でもこの女性の幽霊は、明治時代のひとね)  綾乃は即座に断じた。  髪型が、江戸時代の日本髪ではなかったのである。  明治以降の女性に流行し、やがて明治後期からは廃れていった束髪(そくはつ)と呼ばれる髪の結い方だ。 (衣服は良いものだけど、痛んでいる。昔は富裕層だったけれど、なんらかの理由で没落した明治時代中期の女性ってところかしら。右手の指が少しだけ大きいから右利き。それも指に小さな筆たこが出来ていることから、字を書く機会が多い女性……)  綾乃は女性のかっこうを見るだけでも、すでにここまで見抜けたわけだが、さて観察はこれでひとまず置くとして、以後はコミュニケーションを試みる。 「あなたは何者なの? あの万葉集の写本と関係があるの?」  相手を刺激しないように。  努めて、落ち着いた声音で問いかける。  と同時に、あたりに目を配らせる。  自分たち夫婦の寝室だった。  見慣れた景色だ。足元には布団まで敷かれている。  先ほどまで光司といっしょにいた自宅の一室だ。  ただし光司の姿は見えない。  どこに行ったのか? 疑問だったが、綾乃はとにかく目の前の幽霊に集中する。  しくしく……。  しくしく……。 「あなた、なにがそんなに悲しいの? 万葉集のことが悲しいの?」  しくしく……。  しくしく……。 「万葉集の写本、見たけれど」  綾乃は、あくまでも慎重に尋ねた。 「いくつか歌の写し間違いがあったよ。あなたはあの間違いが悲しいの?」  あ、お。  おおおおおおおおお!!  獣の咆哮に似ていた。  女性は、天に顔を向け号泣する。  そのとき、家屋全体が激しく揺れはじめた。 (地震っ……!?)  立っておられず、布団の上に突っ伏す。  さすがの綾乃も予想しなかった展開だった。 (この幽霊が引き起こした揺れなの? なんて力!)  ズルズルと、布団が崩落をはじめた。  床板が割れ、穴が開き、綾乃の足元を飲み込みはじめたのだ。 「ちょっと……!」  このままでは、大地に沈んでしまう。  地を蹴り、跳ぼうとした。間に合わない。  綾乃の身体は、蟻地獄に呑まれる生物のように、つま先からふくらはぎにかけて、地べたの餌食になっていき―― 「おっと、危機一髪!」  がしっと、綾乃の右手が誰かにつかまれた。  大きな手のひらだった。顔を見るまでもなく、それが誰か綾乃には分かる。 「光司!」 「愛妻の危機にさっそうと駆けつける夫であった、ってな。俺、ポイント高いだろ?」 「言葉が余計よ、もう! でも、――来てくれたのね、ありがとう!」 「どういたしまして、っと」  光司によって、床上に引き上げられた綾乃であったが、――なお、家全体は揺れ続けている。  しくしく……。  しくしく……。  女幽霊は、部屋の片隅で再び泣きはじめていた。  綾乃は彼女の存在に、薄気味の悪さを感じながら、 「とにかく脱出よ。このままじゃ家ごと潰されちゃう!」 「いや、そりゃ無理だな。よく見な、窓の外を」 「あっ……」  窓外に目をやって、綾乃は絶句した。  太宰府の街並みも、月も、星も、夜の闇さえもまったく見えなかった。  広がっているのは『無』であった。宇宙の果てを垣間見たかのような、一切合切の虚無を感じた。 「たぶんここは現実じゃねえよ。夢の中の世界だ。だからなんでもありなんだ。女幽霊のやりたい放題ってわけだよ。俺がちょっとだけ遅れてここに来た理由もそこにある。綾乃よりも俺のほうが何分か、寝付くのが遅かったんだな」  この手の判断と分析は、光司の得意分野であった。  窮地に陥ったとき、瞬時に状況を分析できる頭脳を彼は持っている。  手っ取り早く言えば、喧嘩慣れをしている。  戦いのことを熟知している。  だからこそ光司は、 「こら!!」  ほとんどチンピラのように、女幽霊を怒鳴りつけた。 「えんえんえんえん、泣きわめいて、暴れやがって! あんまり人様をナメてんじゃねえぞ! やるっていうなら、とことん喧嘩してやってもいいんだ。力ずくであんたを消し飛ばすこともできるんだぜ?」  ときと場合によっては、強気に出ないと物事が解決しないことを光司は知っているのだ。  危害を加えてくるような相手には、話など通用しないこともある。暴力をちらつかせるのは美しい手立てとはいえないが、それでも敵によっては、特に相手が幽霊ならばそのほうが事態を動かすときもある――  ――もっとも今回の場合、光司は、半ば本気で怒り狂っていたようで、 「なんの未練があるのか知らねえが、縁もゆかりもねえ菊川一家や俺たちに迷惑かけやがって。ムカつくんだよ、てめえみたいな霊は!」 「光司、ちょっと言いすぎよ。逆に考えてあげて。ここまでしてでも、現世に伝えたいなにかが、彼女にはあるんだって……」 「だったら泣いてばかりいねえで、ちゃんと喋りゃいいんだよ。綾乃まで傷つけようとしやがって。俺が夢の中にくるのがあと一秒遅かったら、どうするつもりだったんだ」 「光司」 「綾乃になにかあってみろ。貴様、冗談で済むと思うなよ」  夫の、憤怒を込めた言葉たちは、綾乃にとってハッとするほど意外だった。  つい、自分の身の危険のことなど忘れていた綾乃である。自分のために光司が怒ってくれたことが、――嬉しかった。  激怒の効果が、あったのかどうか。 「しく、しく。……」  女性の反応が少し変わった。  綾乃は、はっと気が付いて、 「もしかして、話せないの?」 「……しく……」  女性は、うなずきはしない。  綾乃の言葉を否定するでもなかった。  ただ、蚊の鳴くような声で、 「は」 「は?」 「は……か……ま……」  はかま。  それだけ言うのが、精一杯という様子だった。 「はかま? ……はかま。それが理由ね。あなたは、はかまを理由になにか泣いているのね。だけどそれ以上、話せないのね?」  女性はうんともすんとも答えなかったが、先ほどのように地震を巻き起こすでもない。 「理由があるにしても、無関係のやつを攻撃してくるのは感心できねえがな」  光司はなお冷たいことを言った。  だが、これは本心ではないと綾乃にはすぐに分かった。  いまの光司はあくまでも、戦いの態度を見せることで、わざと幽霊に圧力をかけている。綾乃はアメで、光司はムチである。まだこの女幽霊は油断がならない。綾乃が優しくして話を聞き出し、光司は攻撃をされぬようにやぶ睨みを効かせている。相談するでもなく、自然と役割を分担していた。夫婦の呼吸がなせるわざだ。 「お願い、わたしたちを現実の世界に戻して。必ずあなたの苦しみを解決してみせるから」 「………………」  女幽霊は、はっとするほど澄んだ瞳を向けてくれた。  助けて、と訴えているようだった。  ――この目。  ――この(まなこ)は……。  綾乃は、幽霊のまなざしに心惹かれるものを感じき、うなずいた。  かたわらの光司は黙していたが、すでに殺気は消していた。  目が覚めた。 「……夢……だったのね」 「現実に根付いた夢だけどな」  夫婦は揃って覚醒した。  部屋の中は何事もなかったかのように、整然としている。  枕元の万葉集写本も、昨晩と変わらず、ただそこにあるのみだ。  綾乃はそこに不思議な気配を感じた。本が(お願いします)と言っているような気がした。 「なんとかしてあげなきゃ、ね」 「とりあえずは朝メシにしようぜ。腹が減ってはいくさはできぬ。あの女幽霊も、俺たちが飯を食う時間くらいは待ってくれるだろ」  言いながら、光司はさっそうと立ち上がって、 「パンと卵と牛乳があったな。朝はフレンチトーストでいいか?」  この喧嘩に強い、ときにぶっきらぼうにも見える旦那様は、これで料理が得意なのである。綾乃はにっこりうなずいて、 「光司。助けてくれてありがと」 「なに言ってんだよ、当たり前だろ」 「大好きだよ」 「……ベーコンも余ってたな、焼くか」  ふふっ。  夫の両頬が、柄にもなく赤くなっているのを見て、綾乃はまた破顔した。 (それにしても)  あの女幽霊。  彼女の悩みはなんなのか。 (明治時代の女性。1文字だけ違う万葉集写本。しゃべることができない。いいえ、ひとつだけ話すことのできる単語があったよね。……『はかま』。……はかま……)  思案を重ねていく。  すべてがきっと繋がっているはずだと信じて、脳を回転させる。  あのとき、自分を見つめてくれた幽霊の目元が、まぶたの裏に焼き付いている。 (あの顔……あの眼……)  なにか、心が躍るものがあった。  あの顔立ちはもう、凶悪な霊のそれではない。  誰かにすがりたいと思っている者の眼差しなのだ。きっと、そうだ。綾乃としてはなんとしても、彼女の悩みを見つけ出して、解決してあげたい。 (……はかま……。……万葉集……。……はかま……。…………はかま?)  そのときだ。  綾乃の脳裏に、天啓のごとく閃いた発想があった。  万葉集の写本を手に取った。ページを慌ただしくめくっていく。 「お待たせ、綾乃。朝メシ、できたぞ――」 「これよ!!」 「おおっ!?」  綾乃が発した、すっとんきょうな発声に、光司は思わず手に持っていた皿を落っことしそうになったのだが――綾乃が気が付かない。それどころか、自身の着眼が間違っていなかったことが分かって、思わず口角を上げていた。 「間違いない。あの女性の幽霊が言う『はかま』って、きっとこのことだったんだ!」
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