第1話(4) さらに藤袴、朝顔が花

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第1話(4) さらに藤袴、朝顔が花

 国道3号線の高架の下にある、洗出交差点から、西へまっすぐ進んでいくと、落合公園がある。  その公園の外れに、万葉集の歌碑があるのだが、綾乃と光司は菊川を連れてその石碑の前に佇んでいた。 『芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝皃之花』  この石碑の歌は、漢文で記されている。  菊川は、ぽかんとして、かつ申し訳なさそうに、 「あの、僕、正直、読めません。……これが事件と関係のある歌なんですか?」 「そ、大あり。漢文と言っても、見たらピンとこない?」 「ええと……すみません、僕にはやっぱり……」 「この歌には、『はかま』って入ってるでしょ?」 「あっ!」  菊川は、目を見開いた。 「ほ、本当だ。はかま、って書かれてある。袴……このはかまのことだったんですか? あの幽霊が言っていたのは!」 「わたし、菊川くんから預かった写本を通して読んだの。それでね、――前にも言ったけれど、万葉集の中には4500ほどの和歌が収められているけれど、この本には太宰府に関する歌、約200首だけが写されているの。作者は太宰府にこだわりがあったんでしょうね。だけど――」  綾乃は、石碑に目をやった。 「太宰府の和歌が、ことごとく本に写されているのに、この『袴』の歌だけは、写されていなかった。忘れたのかしら? ……ううん、そうは思わない。きっと作者は、この歌を、写したくても写せなかったのよ」  綾乃がそこまで言うと、光司が背負っていたリュックサックを下ろし、封筒を取り出す。 「綾乃に頼まれてな、朝から図書館に行って、コピーを取ってきたんだ」  そう言って光司が差し出してきたのは、古い写真のコピーだった。  若い女性だった。細身で、豊かな量の黒髪を束ねている。  整った顔立ちのひとだったが、その顔を見た菊川は仰天した。 「これ……あの女幽霊じゃないですか!?」 「そうよ。彼女と夢の中で目が合ったとき、どこかで見たような気がしたんだけど……。思い出したの。明治時代に、太宰府で活動した女歌人、菊川八重(きくかわやえ)よ」 「……菊川? 僕と同じ苗字……?」 「そう。たぶん、菊川くんの血縁者だと思うけれど――」  そこから綾乃は、落ち着いた声で話を始めた。 「菊川八重さんは、明治中期に若き女流歌人として優れた歌をいくつも残した。そして18歳になったころ、同じ歌人の男性と縁談がまとまった。その男性とは親が決めた結婚だったけれど、八重さんとはとてもウマが合ってね。よく万葉集の話をしたそうよ。――けれど、ある日、その男性は死んでしまった」 「死んだ。な、なぜです?」 「戦争で」  当時の大日本帝国が、隣の清国(現在の中国)と戦争を始めた。  いわゆる日清戦争だが、その戦いに参加した八重の婚約者は、――戦死してしまったのだ。 「八重さんは壮絶なショックを受けた。婚約者が亡くなったこともそうだけど、その死に方を、家族や友人が賞賛したのもやりきれなかった。『八重の婚約者は、勇敢なる帝国軍人として、天晴な最期を遂げた』。誰もがそう言った」 「そういう時代だったんだな。だが八重さんは、とても納得できず、やがて心を病んでしまい、……あらゆる創作活動をやめてしまった。歌を詠まなくなった。ついには心労のあまり、声もろくに出せなくなった。失声症(しっせいしょう)、というやつだ」 「……だから。……だからあの幽霊は、いえ、八重さんは、声を出せなかったんですか!」  菊川は、納得したように、首を何度も縦に振った。 「八重さんは日に日にやせ衰えていったの。……このままでは命尽きるのも時間の問題。けれど。……八重さんは最後の力を振り絞って、たったひとつだけ創作活動を行った。それは亡き婚約者との約束で―― 『万葉集の中から、我らの故郷たる太宰府の歌だけを抜粋した写本を作ろう』 『わたしたち夫婦の、初めての合作本になるんですね』  生前、彼と交わしたこの話を、八重さんは愚直に守ろうとした。  せめてあの世に行ったとき、彼に万葉集の写本を持っていきたいと思っていた。だけど」 「叶わず、力尽きた、と……?」  菊川が、重い顔でそう言うと、綾乃は無言でうなずいた。 「写本はほとんど完成に近づいていたけれど、たったひとつ。この『はかま』の歌だけは書き写せないまま、八重さんはお亡くなりになったの。  この菊川八重の話は、知る人ぞ知るって感じで、太宰府の歴史マニアや文学マニアの間でのみ語り継がれていたんだけれど、八重の書いた万葉集の写本がどこにあるかは、これまで謎とされていた……」 「菊川家の納戸にずっと眠っていたんだな。それが掃除で出てきたもんだから、封印が解けたみたいに、八重さんの幽霊も出てきたってわけだ」 「……僕、ぜんぜん知りませんでした。うちの一族にそんなひとがいたなんて。父親も母親も、そんなことまるで言わなかったし」 「知らなかったんでしょう。先祖の事績に興味がないひとも当然いるし、仕方ないよ。――さて、わたしたちの推理と調査の結果報告はこれまで。ここからは」  綾乃は、光司が持っていたリュックから、今度は本を取り出した。  八重が書いた、万葉集の写本である。 「解決のお時間よ。……八重さんの作った、いいえ、作りかけのこの写本。……菊川くん。血族であるあなたが、完成させてあげて」 「えっ、ぼ、僕がですか!? まさかこの本に、筆かなんかで和歌を書けって言うんですか!?」 「そういうこと。それが八重さんの望みなのよ」 「どうしてそんなことが分かるんです? 八重さんがどうしてほしいかなんて、分かるはずがないでしょう! 『はかま』としか喋れないひとが――」 「それが分かるのよ。ね、菊川くん、この写本の不思議なところ、覚えてる。書き写しが1文字だけで違う歌が、29箇所あるって話」 「え、ええ、それは覚えていますけれど、それがなにか?」 「わたしね、その29箇所の違いを全部、メモ紙に書き写してみたの」  綾乃は、再びリュックから、メモ紙を取り出した。 まはのかたくなたをだにうさおいねがあかいてのいしかぞますく 「これが違う部分ですか」 「そ。これだけだと、まるで意味不明よね? だけどね、この29文字を並べ替えると」  綾乃はメモ紙をひっくり返した。  すると、そこには―― はかまのうたを かいてください かぞくのあなたに おねがいします 「っ……!!」  菊川は、息を呑んだ。 「八重さんの気持ちよ。幽霊となった彼女が力を振り絞って、写本の中の歌を1文字だけ書き換えたの。すべては、亡くなった婚約者のために、写本を完成させたいから」 「なかなか紛らわしいことするだろ? 綾乃みたいだぜ。綾乃もよく遠回りに嫌味を言ってきたり、家事に文句をつけてきたりするんだけどよ」 「光司、チャチャ入れない! ……いまの八重さんができる、精いっぱいの意思表示だったのよ。夢枕に立つのも、写本の文字を書き換えるのも」  綾乃は、写本と筆、さらに墨汁の入った筒を、菊川に手渡し、 「書いてあげて。写本の最後のページに、はかまの歌を」 「……はい!」  菊川は力強く答えると、綾乃から写本を受け取り、――ゆっくりと、決してうまいとは言えない字だが、それでも心を込めて、執筆した。 『芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝皃之花』 (萩の花、尾花葛花、なでしこが花、をみなへし、さらに藤袴、朝顔が花……)  綾乃は、和文を、脳内で繰り返した。  菊川八重は、婚約者と、花を見るのが好きだったという。  色とりどりの花について詠んだこの歌を、写本の最後に記そうとした気持ちは、それでも完成させられなかった無念はいかばかりか。 「書きました」  菊川が、ふーっと息を吐いた。  写本に、歌が記されている。八重が書こうとして書けなかった、その歌が。  そのときであった。  虹色が、視界中に広まった。 「な、なんだっ……?」  菊川が戸惑いの声音を発すると共に、立ち眩みのようにふらついたが、隣にいた光司ががっしりと支えた。 「す、すみません、光司さん」 「映画館を出るには早いぜ。エンディングはこれからだ」 「え――」  光司の言う通りだった。  虹の輝きの中に、女性がいる。  髪を結った、細面の、硝子のように澄んだ瞳をした女性。  泣いていた。  けれども、もう悲しみや怒りの色は見えない、歓喜と感謝の情を伴った涙を流している。 「ありがとうございます。……本当にありがとう」  張りのある八重の声を綾乃は確かに聞いた。  光司も菊川も、聞いているのだろう。ふたりは天空を見上げて目を細める。  虹の光は、成仏の輝きだ。八重はいま、すべてに満足し、天界へと旅立っていくのである。綾乃にはそれが分かった。経験から分かるのだ。これまで何度、無念のために地上を彷徨(さまよ)う幽霊たちを見送ったか。幾度、この七色の現象を目にしたことか。  だから。  だから、綾乃と光司は。  梅鈴堂の入り口に掲げているのだ。  梅の形をした虹色の鈴を、高らかに鳴らせているのだ。 「さようなら、八重さん」  何度目の当たりにしようとも。  天界に向かって描かれた虹彩は、見飽きることがなかった。  八重は微笑を口許に浮かべた。  菊川は、頭を深々と下げた。光司は手を挙げた。  綾乃は、目を細め――きっとあちらでは夫と幸せになってください、と心の中でつぶやいた。  気が付いたとき、光はすでに消えていた。  菊川の手からも、万葉集の写本がなくなっていた。
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