64人が本棚に入れています
本棚に追加
第1話(5) そして今日も鳴り響く梅の鈴
チリン、チリン――
「綾乃さん、昨日はどうもありがとうございました!」
事件が解決した翌日である。
菊川が、梅鈴堂に明るい顔で飛び込んできた。
もう、虹色の鈴は鳴っていない。普通の鈴だけが歌声をあげている。
「調子よさそうね、菊川くん?」
「おかげさまで。なにもかも解決して、すっきり夜が眠れますから。……あれ、ところで光司さんは?」
「別件で外出中。あ、幽霊系の用事じゃないよ? 普通のアンティーク買い取り案件ね」
梅鈴堂といえど、幽霊やあやかし系の揉め事ばかり扱っているわけではない。
普通のアンティークを買い取るために、働くときもちゃんとあるのだ。
「そ、そうなんですか。……だったらいまが……」
「ん? だったらいまが、なに?」
「い、いえ。なんでもないです! それよりも」
菊川は、明らかになにかをごまかすように手を振ると、
「八重さんの話、親戚のおばさんに聞いたんですが、ちょっとだけ分かりましたよ。八重さんは僕から見ると、ひいひいおじいさんの姉にあたる方だそうで。明治時代に若くして亡くなっちゃったし、僕のご先祖様たちも全員、和歌に興味がなかったから、これまで八重さんのことはまったく伝わっていなかったんですけどね」
「得てしてそういうものね。……それで八重さんの万葉集写本、ずっと納戸の中に眠っていたのが、大掃除で表に出てきちゃったもんだから、八重さんの幽霊も、なんとかしてって気持ちになって、夢枕に立つようになったんでしょうね」
「僕、今度、八重さんの墓参りをするつもりなんです。うちの墓に眠っているそうなんで」
「それがいいよ。……うん、そうね、そのときはわたしも行こうかな」
いろいろあったが、婚約者を戦争で亡くしてしまった女性、というところに、綾乃としてはその辛さが理解できるのだ。
もはや彼女の霊は現世にはいない。
墓を参っても、意味がないことは分かっている。
それでも綾乃は、彼女に花をたむけたいと思うのだ。
「いいかな?」
「も、もちろんですよ! 綾乃さんなら大歓迎です! ……ああ……。……ああ、もう、そういうことなら……言っちゃおうかな」
「ん。なにを?」
綾乃は目をぱちくりさせた。
今日の菊川は、どうにも様子がおかしい。
「綾乃さん。……あの、今回の事件、本当にありがとうございました。すごく助かりましたし、素敵でした! 綾乃さん、知的だし、行動力もあるし、最高です!」
「あ。……そ、そう? あはは、ありがとう」
面と向かってそうまで賞賛されると、その、照れる。
綾乃は長い黒髪を、指先でせわしなく触り続けたが、
「綾乃さん。……僕、綾乃さんが好きです!」
「はいっ!?」
突然の告白。
思わず、黒髪をぐいっと引っ張ってしまった。
痛い。痛い。いてててて。
「本気です! 僕、綾乃さんに本当に惚れ込みました! 僕、僕、年下だし、もの足りないところもたくさんあるかもしれないけれど、でも真剣に好きなんで! 僕と付き合ってください! お願いします!!」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
絶句。
言葉にならない。
どうしよう。その5文字が脳裏を駆け巡り、
「……あのね、菊川くん。わたし、言ってなかった、っけ?」
「はい? なにがです?」
ものすごく呆けた反応を見せる菊川。
綾乃は、そういえば苗字を彼に教えていなかったことや、光司といっしょに住んでいることも告げていないことを思い出し、なるほど彼の中ではわたしたちは仕事のパートナー同士ってことになっているのねとひとりで合点をいかせながら、――きっと残酷な現実を菊川に向かって通達した。
「わたし、もう結婚しているの。光司と」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
チリン、チリーン。
「ういーっす、ただいまー。お、菊川くん、来てたんだ。事件の謝礼については請求書いまから書くからよろしくな。
あー、くったびれた。あんまりいい買い取りできなかったわ。しゃあないな。
てか疲れたわー。綾乃、ヒザ貸して、ヒザ。綾乃の脚でごろごろしたい。いつもみたいに。なー、頼むよ」
突如、帰宅した夫に顔を向けていた綾乃だが、先ほど愛の告白を果たしてくれた男性のほうへと振り返るのは、八重の幽霊を直視したときよりも勇気が必要なことだった。――だからこの馬鹿亭主、人前では自粛しなさいって、もう!!
「おうおうおうおうおうおう、あうあうあうあうあうあうあうあ……!!」
「おっと!? き、菊川くんどうした!? おーい――ああ、行っちまった。綾乃、彼はどうしたんだ?」
「わたしは悪くないから。きっと悪くないから。全部、光司のデリカシーのなさが悪いんだから」
綾乃は頭痛に近い苦しみを感じて、深々とため息をついた。
光司は(なに言ってんだ?)とばかりにまばたきを繰り返す。
菊川は――菊川はまたこの店に来るだろうか。とりあえず、事件解決の謝礼だけは、それはそれとして戴かなければならないのだが。
玄関は開いたままである。
風が吹き抜け、無数の鈴が、チリンチリンと鳴り響く。
太宰府梅鈴堂、ひとまずは今日も泰平極楽の1日だった。
最初のコメントを投稿しよう!