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第2話(3) 宝満山へ登れ!
彼は大学の帰りなのか、膨れたトートバッグを肩にかけている。
「光司さんも様子が変だったし、なんですか、夫婦喧嘩でもしたんですか?」
「えっ……。き、菊川くん、もしかして光司に会ったの? いつ、どこで!?」
「はあ、ついさっきですけど。駅前でばったり」
「駅前!? じゃああのひと、やっぱり電車で高野山に行く気なの!」
綾乃は『郷土読本』を睨みつけた。
現代に適応した呪いかけてくれるじゃない、この本!
「高野山……? あの、光司さんの行き先なら、たぶん分かりますよ。高野山じゃないと思います」
菊川は困惑気味に、だがはっきりと言った。
「ブツブツ言っていましたよ。出家する。出家する。出家するから宝満山に行くって言って――この道をまっすぐに」
「ほう、まん、ざん?」
綾乃はおうむ返しにその名を唱えた。
それは一番近くの山。そう、太宰府市内にある山ではないか。
宝満山である。
綾乃と、事情を聞いた菊川は、ふたりで山道を進んでいた。
宝満山は標高829メートル。
地元の小学生でも遠足で訪れるようなところなので、ちゃんとした道さえ選べば基本的にピクニック気分で登山できるが、それでも山をあなどるなかれ。道によっては重装備が必要になる。
とりあえず綾乃と菊川は、ポピュラーな登山道を選んだ。
竈門神社の近くある登山口から九州自然歩道に向かっていく山道である。
足下こそ整備されているが、それでも木々や雑草が生い茂る中。光司に一刻も早く追いつくため、綾乃はひたすら早足で山に挑み、菊川はついてきているわけだが、
「光司さん、なんで宝満山なんかに登ったんですかね!?」
息を切らしながら、彼は叫ぶ。
「『かるかや物語』の通りなら、高野山に登らないとダメでしょ!?」
「経験から推測するなら、呪いのパワーが足りないのよ!」
推測と言いつつ、綾乃は断じるように言った。
「戦前とはいえ昭和になってできた本、それも菊川くんのときのように、強い執念によって出来上がった呪いじゃないから、物語の再現もいいかげんになったのよ」
「それで高野山じゃなくて宝満山ですかっ? 適当すぎませんか、その本!」
「あんまり悪口言わないで! そんな適当な呪いにかかった旦那がバカみたいだから!」
「す、すみません」
肩を狭める彼を引き連れ、山道を急ぐ綾乃。
菊川と出会った場所から、まっすぐ宝満山を登るとこの道なので、光司にはそろそろ追いついてもいいはずだが、
「あ」
綾乃は、口を開けた。
前方に、岩が見えた。
3メートルほどの、やや大きめの岩だが、その上で男が座禅を組んでいる。
「光司さん!」
菊川が叫んだとおり、それは間違いなく光司であった。
目をつぶったまま、ムニャムニャとなにかを唱えている。
情けない姿である。小さくため息をつきながら、綾乃は岩の下から、夫に向けて咆哮した。
「光司、なにやってんの! ほら、帰るよ? こんなところにいないで――」
「母上、おやめください。私は修行中の身なのです」
「勝手に母親にしないでくれる!?」
こんな大きな子をもった覚えはない。
「光司さん、なに言ってるんですかね」
「『かるかや物語』の呪いが、さらに進んだのよ、きっと」
「はあ、進んだ」
「最初は出家した父親の気持ちになる呪いだったようだけど、いまは父のあとを追った息子の気持ちになるように、呪われたのね」
「じゃあいまの光司さんは、息子バージョンの心になっているってことですか」
「母上。私はこの場所でかようにして、修行に一生を尽くしたく存じます」
「家から歩いて何十分の山中で旦那が一生座禅組んでるとか嫌だよ。夢に出てきそう」
綾乃は思わず、手に持っていた『郷土読本』を強く握った。
すると本は、しゅうううう、と煙を吐き出し始める。綾乃の怒りを知ったのだろうか。
(あなた、よくも面倒な事態を巻き起こしてくれたね。さっさと光司の呪いを解かないと、火あぶりにして燃やし尽くすよ!?)
さすがの綾乃も本気でキレかけて、本に念を送った。
すると……。
――ごめんなさい、ごめんなさい。
――ほんの出来心だったんです。
――せっかく世の中に誕生したのに、さいきん全然読まれないものだから、やつあたりで呪いをかけたんです。ごめんなさい。
「本がしゃべった!?」
菊川が、すっとんきょうな声をあげる。
「命を持った本にありがちなことね。……本なのに読者に読まれないのは可哀想だけど、だからって光司を巻き込まないでよね。さ、早く呪いをときなさい」
――ごめんなさい。
――それが、自分にも、呪いのとき方がよく分からなくて。
「は? なに言ってんの、あなた」
「無責任な本ですね」
「母上、もう日が暮れます、どうかお帰りください」
「帰りたいのよ、わたしだって!」
綾乃は長い黒髪をガシガシと指でいじり回しながら、もういい、こうなったら実力行使だとばかりに岩に登り、思いっ切り光司を羽交い締めにした。
「あっ、なにをなさいます母上。この山は女人禁制」
「あなたが降りたら二度と上らないよ、こんな岩! いいから、岩を、さっさと、下りなさ――」
「あ、綾乃さん、危ないです! 落ちる、ふたりとも岩から落ちる、あ、あぁっ!!」
菊川の実況通り、綾乃と光司はずいぶん揉み合いになった。
巨岩の上でバランスを崩し、抱き合うようにして倒れ、落下していく。
ま、まずいっ!
落ちるっ……!!
綾乃は思わず目をつぶった。
このままじゃ、わたしたち地べたに激突するっ!
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