ミハイルside 20~サイゴン1972~

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ミハイルside 20~サイゴン1972~

 ラウルがニコライを部屋へ呼び出した。私は少し遅れてラウルの部屋に向かった。ラウルのことだ、崔に関する何かをニコライに依頼するだろう。私はしばし扉の前で待った。 「崔の過去を洗ってくれ....。あいつの弱点は過去の何処かにあるはずだ」 「何処かって.....?」  図星だった。私は扉を開け、以前から考えていた事案をニコライに命じた。 「ベトナムだ。ベトナム戦争の記録を洗え」  私は眼を丸くしているラウルに言った。 「奴の狙いはお前だ。おそらく...奴は手段を選ばない。その理由はたぶん奴の過去に繋がっている」 「なぜ.....?あいつの過去って...?」 彼の目が怪訝そうに私を見詰めた。 「おそらく.....邑妹(ユイメイ)が知ってる」 「じゃあ先代の所へ...」  私は首を振り、努めて平静に言った。 「邑妹(ユイメイ)は父の施設にはいない。行方はまだ掴めていない 「まさか消されたのか?」 「そういう情報は入っていない」  私は動揺する彼を宥めた。 「安心しろ。おそらく、崔は邑妹(ユイメイ)を殺しはしない。.....ニコライ、わが社の関連の施設のセキュリティを強化しろ。レベル3に引き上げておけ」 「承知いたしました」  崔の動きが、怪しくなっていた。ニコライは一礼すると、徐に部屋から出ていった。事態は、ラウルが思っているよりも深刻になっていた。が、彼にそれを覚られるわけにはいかない。 「崔は邑妹(ユイメイ)を殺さないって...?なぜ分かるんだ?」  ラウルは混乱して、私に詰め寄った。 「たぶん.....ベトナムで全てが始まっている。」  私は言葉を切り、目線を窓の外、彼方に続く空に投げた。 「あの戦争から.....」  全ては始まったのだ。私はあれをラウルに見せねばならない。見せて詫びねばならない。  新しく着けた、KGBの元諜報将校イリーシャとのトレーニングを終えてラウルが部屋に戻るのを待った。ウォッカをグラスに注ぎ、気持ちを落ち着ける。シガーロに火を点けては揉み消し、適切な言葉を探す。テーブルの上に置いた封筒の白さが目に突き刺さる。 「お前も飲むか?」  ラウルが私と封筒を交互に見て、短く言った。 「もらう...」  私に彼のグラスにウォッカを注いだ。氷に絡むように透明なアルコールが伝い、グラスを満たす。そう、ラウルが私の凍った心を溶かしたように、濃密で純粋な酒が少しずつグラスの氷を融かしていく。  彼は黙って濃い酒を一口、二口舐めた。さすがに慣れない45度のアルコールはきついらしい。 「トレーニングは続いてるか?」 「まぁな......」  取りかかりの言葉を探すが、うまく話せない。沈黙が流れる。彼が意を決して口を開いた。 「それは........?」 「邑妹(ユイメイ)が残していった......」  私は震える手で封筒を開いた。一枚の写真を取り出し、彼の前に置いた。 「随分、古いな......」  かなり退色してセピア色に霞んだそれを彼はじっと見つめた。穴の空いた漆喰の壁の前に立っ若い男女と少女。彼の唇が問う。 「誰なんだ?」  私は黙って写真を裏返した。彼の眼差しが消えかけたペンの跡を辿る。 ーサイゴンにて.....。1972年ー 「1972年?」 「おそらく、この少女が、邑妹(ユイメイ)だ」  私は写真を元に戻した。おかっぱ頭の少女の顔....爆撃の恐怖に怯えながらも、なんとか笑おうとしている。子どもの頃から気丈な子だったと、父に聞いた。 「この男女は...邑妹(ユイメイ)の両親なのか?」  私はラウルの問いに首を振った。 「女はおそらくまだ十代だ。裏の文字の跡を解析させた」  私は一枚の小さなメモを拡げた。写真の裏の文字を解析させたものだ。 「中国語の走り書きだ。お前なら読めるだろう?」  彼がメモを手に取った。 「サイゴン...1972年.....邑妹(ユイメイ)と苓芳(レイファ)と.....。愛を込めて.....」 「おそらく苓芳(レイファ)というのは、この男の恋人だ。邑妹(ユイメイ)の姉......だろう」  少女の邑妹(ユイメイ)は、若い女性の手をしっかり握りしめている。 「この男の顔に見覚えはないか.....?」  彼は写真を凝視し、そして愕然とした表情で私を見上げた。 「まさか......崔...か?」  私は黙って頷いた。写真の崔はおそらくは二十代だろう。邑妹(ユイメイ)の姉らしい若い女性と肩を寄せ、優し気な眼差しで二人を見詰めている。    「.....サインは伯嶺の字を崩したものだろう」  私はグラスを口に運んだ。彼に『あの事』を言わねばならない。彼が訊いた。 「邑妹(ユイメイ)の姉と崔は恋仲だったのか.....」 「たぶんな。だが、それだけじゃない」  私は彼をじっと見つめた。 「女の顔をよく見てみろ.....掠れて判りづらいかもしれんが.....」 「聡明で勝ち気そうな美人だな。.....ショートカットなのは時世か...?」  私は溜め息をついた。彼は自分の容姿に関心が無かった。そのため、写真の示すもう一つの重大な事実に気付いていない。私は鏡を指差し、意を決して言った。 「お前に良く似ている.....。目付きや口許の印象まで」  彼は改めて鏡の向こうの、『今』の自分の顔を見た。私は覚悟を決めて、続けた。 「以前の青年の顔を見ても顔立ちが似ている位の印象だったかもしれんが.....今のお前は顔つきまで瓜二つだ」 「何が言いたい?」 「崔は......おそらく.....お前にかつての恋人を見ている」 「止めてくれ!......第一、年齢が違う」  彼は、目の前の写真から導き出された恐るべき事実に唇を震わせて否定した。だがそれは事実なのだ。私が生んでしまった、拭い難い過ちなのだ。私は空になったグラスを見詰めて言った。 「邑妹(ユイメイ)の姉は、あの戦争の犠牲になった。十九で亡くなった。......邑妹(ユイメイ)はそう言っていた」 「それじゃ....」 「あの男は、死んだ恋人の面影をお前に見てるんだ......ラウル」 「自分が殺した男の息子にか?!」  皮肉な運命になってしまった。.......あの一瞬が全てを変えてしまった。私の放った弾丸が、彼の、ラウルの運命を変えた。それは私の望んだ『変容』ではあった。だが、それはやはり人に在らざる行為、人智に叛く傲慢であった......この写真は、その罰。人に在らざる望みを抱いた私にもたらされた天の試練なのだ。 「邑妹(ユイメイ)は、崔が花嫁衣装を送りつけてきたことで、それに気づいた。だが、私にもお前にもそれは言えなかった.....」 「だから姿を消した、というのか。......何処に?!」 「それは解らない.....」  ラウルに打ち明けることは出来ない。崔の思惑に気付いた邑妹(ユイメイ)は、私に言った。 『何があっても、どんな手を使っても、私はあなたを、小狼(シャオラァ)を守る。私の大切な子ども達を不幸にはさせない』  彼女の決意に満ちた眼差しは決して偽りではかった。崔の過去を、私達の知り得ない苦痛を抱えながら、それでも私を私達を選ぶと言いきった。 『血は繋がっていなくても、あなたは私が育てた大事な息子。......息子を守るのは母親の役目よ』  私はその時初めて、邑妹(ユイメイ)の大きさを、愛情深さを知った。そして、私は私の軽率さを思慮の及ばなかった未熟さを彼に詫びねばならない。 「ラウル......済まない」 「何がだ?」  彼は私の内心を察して、平然とした素振りで言った。 「お前が俺を『入れ換えた』ことを悔やむな。歯車は動き出した。俺は父さんの仇を取る。この身体で....」 「ラウル.....」 「お前が俺をこの身体に『入れ換えた』のは、崔に、神が正義の鉄槌を下す為だ。.......お前の罪じゃない」  彼は唇を噛む私をその慈愛に満ちた腕で抱きしめた。 「神は、お前に祝福を与えたんだ。.....ミハイル、あの時、図書館で出逢った時に、俺達の運命は決まったんだ」  私は言葉に詰まった。彼の強さ、慈愛の深さに魂が震えた。私は神が彼を与えてくれたことを心の底から感謝した。 「ラウル.....」  彼は私の瞼に口づけして、涙に潤んだ私の瞳を見つめた。 「俺はお前の側にいる」  その揺るぎない微笑みは菩薩以外の何物でもない。私は全ての思いを込めて、彼をきつく抱きしめた。 「愛してる.....」    グラスの氷が小さく鳴った。    
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