命の形

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命の形

 命という無形(むぎょう)の罪から解放されて、  ようやく無音の(とき)が重なる。  密やかに、白い骸骨(からだ)を抱きしめた。  今なら(さや)かに聞こえるわ。  騒ぐ血潮(ちしお)のけたたましさに  邪魔をされない吐息の震えが。  貴方の眼窩(がんか)に反響している、  いつかの愛の声塊(こえかたまり)が。  鼓動が一つに溶け合わないと、  どれほど二人で泣いたのかしら。  同じ病に苦しめず、  悩みを分かちあえなくて、  吐くように声を震わせた夜を、  一体どれほど積んだのでしょう。  貴方も私も罪など無いのに。  許しを求めただけなのに。  それでもこうして、神は散ったわ。  あの涙があったから、  慟哭(どうこく)を上げた夜があったから、  神を恐れぬオボロマボロが  奇跡を授けてくれたのよ。  不安も恐れも、全ては(しおり)。  日記は衣服と共に焼いたわ。  貴方の身体に似合わないもの。    戦火の赤が遠くに見える。  血液は堕落(だらく)する神の詩歌(しいか)。  大砲の音が大気を震わす。  鉄は()むべき悪魔の楽器。  悲鳴はここまで届かない。  部屋は愛で飽和してるの。  情欲だけが世界を救うわ。    貴方は常々(つねづね)言っていた。  命を燃やして(おこ)った熱こそ、  ()しき絆を結い続けると。  今も想いは変わらないかしら?   いいえ、すっかり変わったでしょう?  限りある熱に囚われず、  不変(ふへん)の形を得られた今なら、  生身が見せる幻想の(ふち)を越えられる。  そう、命なんて要らないの。  熱に(まこと)は宿らない。  形があれば、愛情は()きる。  こうして繋がり逢えるんだから。 「ねえ、愛しい人。  私のモノ。  貴方だけのモノ」  鮮血のような色に染まった  リボンを咲かせるドレスを身につけ、  夜の静寂(しじま)に抱き留められた、  貴方の首にしな垂れかかる。  フリルが踊るガーリードレスは、  あの忌まわしい西の戦地に(おもむ)く前に、  貴方がくれたプレゼント。  真っ白なドレス一枚を  羽織(はお)っただけの私の身体を、  カラカラに朽ちた木乃伊(からだ)の私を、  (ただ)ひたすらに愛してくれた。  無二(むに)の形を示してくれた。  極端に丈が短かったり、  背中が大きく開いているのは、  高尚(こうしょう)ぶっていた貴方が  秘めに秘めてた可愛らしい趣味。  特別に教えてくれた真実が、  どれほど心を満たしてくれたか、  貴方はきっと知らないでしょう。  いいえ、知らなくてもいいの。  わがままな私の願いを叶えるために、  もっと、もっと貴方を見せて?  白い頭蓋に頬を寄せ、愛しさを込めて抱きしめる。  温度を知らないこの肌で、  変わることのない硬さを味わう。  みんなの手本になりたいと、  どこにいても緊張を(まと)い、人々の中を生きてきた貴方。  目元の(しわ)(ほころ)ばせ、  舌から弱々しさを垂らし、  甘える仕草を見せるのは、  二人きりで過ごす夜だけ。  なにより幸せだった時間。  今はもう、返事さえしてくれないけど、  貴方を冷たいとは思わない。  こうして同じ時間を過ごせる  唯それだけが、  どれほど幸せなことなのかを  私は十分知っているから。  貴方がまだ、罪の中でもがいていた頃。  戦況の悪化を止められず、  なかなか家に帰ってきてはくれなかったから、  私は独り、屋根裏に潜み、  ひたすら時間を呪っていたわ。  ようやく休みをもらえても、  昼夜問わず鳴り響く召集電信(しゅうしゅうでんしん)が貴方を(さら)い、  町を囲んだ拡声器から、  窓が壊れるんじゃ無いかと思うほどの大音量で  (わめ)き散らされる空襲警報が、  貴方に軍帽を被らせた。 「人間たちは未だに誰もが、  生きていることの愚かさに気がつこうとはしていないのよ。  こんな時代に、同じ時間を歩幅で計り、  同じ景色を記憶できる幸せが、  どれほど希有(けう)なことなのか、  誰よりも早く、モノに変わってしまった私は  心の底から理解している。  命を捨てて、感情を満たす器として生きることの素晴らしさを、  誰よりも深く学んできたわ。  人が人でいる限り、たどり着けない幸せがあるの」  折れて落ちてしまわないよう  固定された手に、手を重ねる。  触れてしまえば、記憶の扉は次々開くわ。  作ったポトフを美味しいと、残さず食べてくれたこと。  転んで壊れた私の足を、(うな)りながら悩みながら、  一生懸命直してくれた、静かな、静かな夏の夕暮れ。  他の人に見られてはいけない私の身体を気遣(きづか)いながら、  (よい)に溶け込む小さな庭で  手を繋ぎながら、二人で散歩をしてくれた。  乾いた身体を(もてあそ)び、乱れた吐息を浴びせてくれた、日々、繰り返す夜。  もう、声さえ聞くことは叶わないけど、  色()せない思い出たちが、  私を優しく癒してくれる。    そんなにじっと眺めてて、楽しいのかしら?  座る貴方を安楽椅子ごと動かそうとするけれど、  どうしても上手くいかないの。  多分、貴方が動きたくないと思っているから。  記憶は脳に宿ると言うわ。  それならじっと、  瓶詰めにした自分の脳を見つめる貴方は、  遠い記憶を眺めているの?  ああ、私と過ごした蜜月(みつげつ)を、  ひたすら思い返しているのね。  そんな寂しいことをしないで?   これから未来がやってくるのに。  二人っきりの物質世界。  ずっと一緒に眺めていてもいいのだけれど、  月が南へ辿り着いたから、  大人の時間を始めましょう?  丸みだけで構成された硬い口にキスを捧げる。  輪郭を、唇でなぞり、  一方的な時間の(かせ)から逃れられた永久形状、  白い貴方を確かめる。  外れないよう縛った顎に頬を寄せると、  いつかの声が聞こえてくるよう。 (くすぐったいよ? エリス)  私の記憶はいつだって白い。  乳白色(にゅうはくしょく)の幻想に浸る。  今夜もたくさん愛してあげる。  貴方も思う存分、私を愛して?  これまでと、これからを、  絡みつかせる情欲だけが、  月日を巡らせてくれるから。  私が朽ちたら、真実の永久(とわ)が始まるわ。  もし、終わらない世に()ちられたなら、  呼吸を覚えて新たな神話を()りましょう。  重なり逢って溶け出す岩漿(マグマ)に  子守歌を聴かせながら、  貴方の星を、私が産むわ。  かみさま。  ***  声塊こえかたまり……造語。意味は不明。  木乃伊……本来はミイラと読む。
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