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「いいかい? 重いものは持つな。できるだけ走るな。階段の上り下りは馬鹿らしくなるくらい慎重にするんだ。それ以外は普段通りにしていいから」
先生が帰った後、アカネは厳しい表情でそれだけ言うと、いつも通り店に戻っていった。そして、その後も明美には何も言わず、たまに先生が来て、診察されて、順調だと言って帰る日々が続いた。
「アカネさん」
まだ従業員が出勤していない店の中で、明美は意を決してアカネに声を掛けた。
「どうした?」
「あたし、子ども産んでいいのかな」
アカネは一瞬目を見開くと、明美を手招きした。促されるまま、傍の椅子に腰掛ける。
「明美は産みたくないのかい?」
「産みたい」
良との幸せの証。産まないという考えは初めからなかった。即答した明美に、アカネは笑顔で頷いた。
「そう言うと思ったよ。私だって、あんたより若い時に産んでるんだ。止めないよ。まあ、この年で祖母さんになるのは微妙な気分だけどね」
「ありがとう」
明美は深く頭を下げた。アカネは肩をすくめると、明美の肩を押した。
「ほら、早いうちに掃除しちゃいな」
「は~い!」
4月になり、明美は正式にアカネの店の下働きとして働いている。妊娠しているのであまり無理はできないが、体調がいい日は店の掃除や野菜の下ごしらえをやっているのだ。
「ゴミ捨てに行ってくるね~」
「転ぶんじゃないわよ」
明美はゴミ箱を抱えて店のドアを開けた。裏手にあるゴミ捨て場に行こうとして、目の端に入った人影にゴミ箱を落としそうになった。
嘘… だよね。
見間違える訳がない。少し髪が伸びているが、あの姿は良だ。明美は慌ててビルの陰に入ると、壁に寄り掛かって呼吸を整えた。足音が近づいてきて、店のドアを開ける音がする。
「なんで… なんで良がここにいるの?」
アカネと暮らすようになって、ようやく知ったのだが、明美と良が住んでいた街とこの街は間に県を2つ挟んでいる。考えてやった事ではないが、遠縁の伯父には離れた場所から葉書を書いたし、荷物も全部捨てたし、明美がここにいる事を気付く人はいないと思っていた。
「逃げなきゃ…」
走ろうとして、足が止まる。自然と手がお腹を押さえる。
駄目だ。逃げる訳にはいかない。
ここを離れて、子どもを産めるとは到底思えない。明美は足音を立てないようにビルの裏手に行くと、ゆっくりと腰を下ろした。
お願い、アカネさん。いないって言って。
膝の上で手を組んで額を当てる。あとは、アカネに願う事しかできない。しばらくそうしている内に、足音が近づいてくるのが聞こえた。
良じゃないよね。アカネさんだよね。
手が痛くなるくらい握りしめて、必死に祈る。目の端に人の影が映り、誰かが自分の前に立つのがわかった。
「…見つけた」
少し疲れたような、でも凛とした声に、気が遠くなるような絶望と、それ以上の幸せな気分が綯交ぜになる。どんな表情をしているのか、すごく見たくて、でも、見たくない。強く目を瞑ると、ため息が聞こえた。
「往生際が悪いぞ」
地面を踏みしめる音がして、良が屈み込んだのがわかった。でも、どうしても身体が動かない。硬直している明美の手に温かい手が重なる。それだけで、本物の良だってわかった。指を解かれ、手首を掴まれる。恐る恐る目を開けた明美の目に、少し頬のこけた良が映る。
「良かった」
唇が、身体が震えて、声が出ない。唇を戦慄かせる明美に、良が口元を歪める。身を乗り出して明美の額に額を当てる。
「本当に、良かった…」
頬に水滴が落ちる。慌てて良の顔を見ると、良の頬に涙が伝っていた。
「良…」
自分の声がひどく掠れていた。
「どうして、ここに?」
「お前を探してたからに決まってるだろ」
「だって、ここは…」
「馬鹿野郎。まずは言う事があるだろ」
言いたい事があり過ぎて、何を言ったらいいのかわからない。呆然と良を見つめる明美に、良は肩をすくめた。地面に胡坐をかいて背筋を伸ばす。
「明美。お前は俺のものだ。そう言ったのは覚えてるな?」
頷いた明美の肩に、良の手が置かれる。
「二度と離さない。そう言ったのも覚えてるな?」
深く頷いた明美の頬に良が手を添える。
「それなのに、お前は俺の前から消えた。俺がどんな思いをしたか、わかるか?」
頭の後ろに手が回る。引き寄せられて、自然と明美の膝が良の膝の上に乗る。
「もう、会えないかと思ったんだぞ。必死になって、探したんだ。もう、何を言えばいいかわかるよな」
「…ごめんなさい」
涙が零れた。背中に良の腕が回り、ゆっくりと引き寄せられる。明美は良の肩に手を回すと、そっと抱いた。
「ごめん。本当に、ごめんなさい」
「よし。見つかったから、もういいんだ」
頬に良の頬が当たる。伸びかけた髭がざらりと音を立てた。
「どうして、見つけたか教えてやろうか」
少し身を離した良が明美の額に額を当てる。
「初めは、お前の住んでいた部屋の管理人に詰め寄って、家賃を払っていた伯父さんの連絡先を聞き出した。次に、伯父さんに連絡して明美からどうやって連絡が言ったのか聞き出して、葉書に押された消印を聞いた。そして、消印がどこの地域なのかを調べた。あとはいなくなった日あたりに走ってた電車の終着駅毎に、明美と呼ばれる子がいるかどうか、手当たり次第に聞いてったんだ」
「なんで、わかったの?」
電車の終着駅毎なんて、確信がなかったらできない筈だ。
「気付いてなかったのか? 明美と俺の考え方は似てるんだ。入学式の時に桜に惹かれた事も、学校に来なくなった時の逃げ方も、学校に来た時に先生達を撒いた隠れ場所も」
そういえば、学校で生徒指導から逃げた時に、弁当を食べる場所だと言って良が来た事があった。目を丸くした明美に、良が苦笑する。
「もしも俺が身を隠すとしたら、電車を乗り継いで、できるだけ遠くに行く。だから、お前も同じ事をしてると思ったんだ。当たりだったな」
良が明美の頭をそっと撫でる。
「この街に来て、確信した。きっと明美はこの街にいるって。だから、初めから八百屋に声を掛けた。どんな暮らしをしてようが、必ず飯は食うからな。明美ちゃんならこの店だって教えてもらった時は、本当に嬉しかった」
良の指が顎をくすぐる。
「いい人と出会えたんだな。話を聞いて、すぐに分かった。でも」
顎を掴まれて上を向かされる。真剣な表情の良が近づいてくる。
「俺から離れたのは許せない。もう、一生離れるな」
「うん」
唇が重なる。強く、深く重ね合い、そして離れる。
「明美… お前、太った?」
「あ…」
明美はゆっくりと首を振った。腕を解いて、そっと自分のお腹に触れる。
「あのね… 子どもが、いるの」
良は一瞬目を見開き、そして優しく微笑んだ。
「やっぱり、明美は馬鹿だ」
「なにそれ」
「お前、どれだけの野郎と関係したのか知らないけど、一度もそんな事になんなかったんだろ? それなのに、俺とはたった一度だけで子どもができたんだ。俺とお前は一生離れられない運命なんだよ」
「良…」
「今度こそ、離さない。お前は俺のもんだ」
唇が重なる。明美は嬉しくて涙が止まらなかった。
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