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良は本当に全てを捨てて、明美を探していた。
『言ったはずだぞ。俺は明美が手に入るなら、今持ってるものは捨ててもいいって』
『でも… お母さんは?』
あの時、本当に心配していた良の母親の姿を思い出す。良は肩をすくめた。
『お前と違って、黙って出てきた訳じゃない。ちゃんと話して、家を出たんだ。次に帰る時は、俺が死んだ時だよ』
『そんな…』
『明美が気にする事じゃない。お前は俺の傍にいればいい』
強く抱き締められる。そんな2人を見ていたアカネが優しく微笑む。
『明美。良がそう言ってんだ。あんたも覚悟を決めるんだね』
『アカネさん』
『それだけの覚悟を決めてきた子だから、私は明美の事を教えたんだ。じゃなきゃ、人違いだって叩き出した。それくらい、わかってほしいもんだね』
2人の気持ちが本当に嬉しかった。明美は何度も頷いて、2人の顔を見た。
『ありがとう』
2人は優しい笑顔で、明美の頭を撫でてくれた。
それからの日々は幸せそのものだった。アカネは2人の為に安いアパートを借りてくれて、いつも野菜を買っていた八百屋のおじさんが良を雇ってくれた。
「だいぶ大きくなったな」
良が明美のお腹にそっと手を当てる。
「もう臨月だからね。いつ産まれてもおかしくないさ」
「明良、はやく産まれておいで」
良は子どもに語りかけるようにお腹に口を当てる。くすぐったくて、明美は思わず良の頭を手で押した。
「ちょっと、くすぐったいったら」
「いいじゃないか。話したいんだから」
「それより、その、あきらってのはなんだい」
眉を寄せた明美に、良が肩をすくめる。
「産まれてくる子どもの名前だ。明るくて良い子と書いて、明良。これなら男でも女でもおかしくないだろ」
「え…」
「子どもには明良と名付けるんだ。明美と俺の子どもだ。わかりやすいだろ?」
良が優しくお腹を撫でる。2人の名前が入った、子どもの名前。明美は涙が止まらなかった。良が頬に伝った涙を指で拭う。
「何、泣いてんだ」
「あんたが泣かせるんじゃないか」
良の胸に顔を押し付ける。胸の動きで、良が苦笑したのがわかった。
「なにさ」
「いや… 明美、アカネさんと話し方が似てきたな」
「仕方ないでしょ? ずっと一緒にいるんだから」
自然と尖らせた唇に、良の唇が重なる。
「悪くない。明美に似合ってる」
「良…」
何度も唇を重ね、そして離れると2人でお腹に手を当てる。
「はやく産まれておいで。待ってるよ」
こんなやり取りができるなんて、思いもしなかった。幸せで涙が出る。涙を振り切ろうと、良にからかい交じりの笑みを浮かべる。
「明良が女だったら、良は過保護になりそうだね」
「当たり前だろ。明良に近付く男は殺してやる」
本気でそう思っているような表情に、明美は良の額に指を当てた。
「自分たちはこんな風に一緒になったってのに? そう言い返されたらどうすんのさ」
「俺と明美は運命だからいいんだ。明良が、運命の相手を見つけるまでは、どんな相手でもぶん殴る。そう言い返す」
将来の良の姿が目に浮かぶ。明美は苦笑すると良の頬に頬を押し当てた。
「過保護だねえ」
「男だったら、運命の女を見つけろって説教だな。俺のように、運命の女を探せって言い聞かせてやる」
これは相当な子煩悩になりそうだ。明美は口元に笑みを浮かべると、時計に目をやった。
「やだ、もうこんな時間じゃないか。仕事だよ」
「ああ」
良が作業着に着替える。部屋の戸の前まで見送るのがいつもの日課だ。
「行ってくるよ」
まずはお腹に唇を当てる。そして、明美と唇を重ねる。
「行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
良の笑顔に手を振る。良の背中が見えなくなるまで見送って、部屋に戻る。
「あ… 今日、ゴミの日だ」
溜まっていたゴミは部屋の脇に集めてある。明美は袋を手に取ると、ゆっくりと部屋を出た。
その時、遠くに雷が落ちたような鈍い音がした。慌てて空を見上げるが、空には雲一つ見つからない。
なに… 今の?
呆然と立ち尽くす明美の耳に、魚屋のおかみさんの声が響く。
「事故だよ! 八百正さん!」
八百正さんとは、良が世話になっている八百屋の名前だ。嫌な予感がする。明美はゴミ袋を投げ捨てると、叫び声がする方へ走った。
嘘、だよね。何もないよね。
足が縺れて、うまく走れない。ようやく近くまで行くと、黒い車が壁に斜めに突き刺さっているのが見えた。
「あ、明美ちゃん!」
八百屋のおじさんの声が遠く聞こえる。
「駄目だ! 見るんじゃない!」
おじさんに行く手を塞がれる。それを振り払って、黒い車の先を見た。
あの服… 良が着てた作業服だ。
車の先に見えたのは、後頭部を潰された、変わり果てた良の姿だった。
「明美ちゃん! 見るんじゃない!」
おじさんに目を塞がれる。
そんな… だって、今、笑って出て行ったんだよ。それが、そんな…
「いやー!!」
明美は絶叫した。
「誰か! アカネちゃんを呼んで来い!」
「いやー! 良、良ー!」
周囲の音など聞こえない。明美は耳を塞ぐと声の限り叫んでいた。
「明美!」
肩に、アカネの手が置かれたのも気付かなかった。
「うそよ、誰か、嘘だと言ってー!」
明美は叫び続けて、そして、意識を失った。
それから、明美は意識を取り戻す度に叫び、そしてまた意識を失う事を繰り返していたので、その後の出来事は覚えていない。
心臓発作を起こした運転手の車が、歩いていた良を背中から撥ねた事。
良の遺体は両親が引き取りに来た事。
良の葬式は地元の実家で行われ、荼毘にふされた事。
それは、全て後から聞かされた。
「明美ちゃん」
最初に気付いた時、明美の前には沈痛な面持ちの八百屋のおじさんがいた。
「ごめんね。良ちゃんの荷物、ご両親に返す前に探らせてもらったんだ。そうしたら、これが入っていたんだ」
おじさんの手には、白い封筒があった。
「ご両親宛のものもあったよ。あの子は本当に全てを覚悟していたんだね」
差し出された封筒を受け取る。そこには子どもっぽい良の字が書かれていた。
『明美へ 明良へ』
震える手で、中の便箋を引き出す。几帳面に折られた便箋を開くと、紙一杯にでかでかと書かれた良の文字が目に飛び込んできた。
『死ぬな』
良は、本当に、もういないんだ。
「良…」
明美は便箋を胸に抱え込むと、静かに涙を流した。
明良が産まれたのは、その1週間後だった。
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