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「今日テレビでやってたんだけど、福岡ネズミ捕りがすごいらしい」
「ほーん。嫌だねぇ」
父の唐突かつ適当な雑談を受け流しながら、風呂から上がった私は冷凍庫に直行してパピコを取り出した。棒のアイスみたいに溶けて落ちることはないし、カップアイスみたいにスプーンを使わなくていいし、二個に分かれているからちょっと食べたい時にちょうどいい。私みたいなズボラ人間にピッタリである。ちなみに、食いしん坊な私に対して、二個に分かれる機能がその効力を発揮したことは記憶の限り一度もない。
東北民にとって九州は半分外国だ。すごく暑そうだし、街もごちゃごちゃしている印象だ。ゴキブリやらネズミやらの類は、福岡にとっては日常風景に決まっている。
その点、仙台は碁盤の目のように整然とした街だ。杜の都の名の通り緑も多い。そしてネズミはともかくゴキブリは出ない。
「もうバンバン捕まってるってよ」
「ひぇー」
パピコだけに、と言おうとして引っ込めた。安直過ぎてけなされる。
「どこにいるか分かんねぇからな」
「仙台もいるけどねぇ、福岡の方がすごそう」
「そりゃ仙台は百万都市最弱だから。大都会福岡様の方がすごいだろうな、取り締まり」
……ん?
「取り締まり?」
「警察の連中、見えないところに隠れて追っかけるじゃん? 本当に事故を防ぎたいなら、コソコソ隠れてねぇで交差点の真ん中とかで堂々と見張ってりゃいいのにな」
「そ、そうね」
やっべぇ、全然違和感なかったわ。私は素知らぬ顔でもう一度冷凍庫に向かい、二袋目のパピコを開けた。
「そーいやお前、準備は進んでんのか? 片付けしてる形跡なかったけど」
「は? 勝手に部屋入ったの? キモっ。あ、トイレと間違えたんですね~。お父さんの頭、ハゲるだけじゃ飽き足らずボケまで進んで難儀だね。日頃の行いが悪いから下痢便詰まったみたいな頭になるんだよ」
「日頃の行いで下痢になるんなら、恵子、台所から肛門直通でもおかしくないのに何で便秘なんだろうね」
「台所ごと肛門に繋げるとか最強じゃん。神かよ」
「トイレキッチン一緒のワンルームじゃん。最強の利便性」
「何? またお得意の便所メシの話?」
「お前が勝手にハゲだの下痢だの言い出したんだろうが。片付けの話だ」
おっとそうだった。私は両手に持っていたパピコの殻をゴミ箱に放り投げた。入らなかった。まあいいや。
「持ってくモンもそんなにないし。服と靴と化粧品とマンガとゲームくらい? せいぜいダンボール四、五箱でしょ。一日あれば楽勝よ」
家電や家具、日用雑貨も全部向こうで新しく買い揃えるので、荷物は身の回りの物くらいだし、最近メルカリに色々出品して断捨離もしている。
「思いのほかサクサク売れて、二日に一回くらいのペースでコンビニで発送手配してるんだけど、店員さんたちに『また来たよ妖怪メルカリババア』って言われてないかが心配」
似合わないと分かっているのに、秋になると「オシャレ~~秋っぽ~~!」となって衝動買いしてしまうのがブラウンリップです。分厚い唇の色に負けて発色しないと分かっているのに、春になると「儚~~春っぽ~~!」となって衝動買いしてしまうのがサクラピンクのリップです。ここテストに出ます。メルカリにはもう出しました。
「どっちかっつーと妖怪被害妄想ババアだな」
「やかましい、妖怪ビチャビチャうんこジジイ」
「昔はかわいかったのに。ほっぺたムッチムチで食べちゃいたいくらい。おてて繋いでお散歩行ったりさ。何でこんな小憎ったらしい唇お化けになっちゃったかね」
「毎度一言余計なんだよなぁ、てっぺん隙間風おじさんは。今も細くてきれいでかわいいでしょうよ」
「中肉中背の普通じゃん」
と、父は何やら押入れをゴソゴソと漁り始めた。引っ張り出したのは古いビデオテープだ。
「見るか? お前の成長記録。〇歳編その一」
「その一って……いくつあんのよ」
「数えたことない。こっちは……、お、一歳編その三だ」
「うちまだビデオデッキあったっけ? 今時VHSとか無理でしょ。貞子でさえもうVHS使ってないのに」
テレビ台にはプレステ3とプレステ4が鎮座している。ビデオデッキがプレステにその座を奪われたのはいつだっただろう。とっくに陰も形もない。ゲーム機はもちろん持っていくつもりなので、DVDやブルーレイが見たければ、父にはプレーヤーを新しく買ってもらうしかない。
「え、貞子どうしてんの? ブルー霊ってこと?」
「確か動画サイトかなんかに乗り替えてた気がする」
「えー、時代感じるわ、それ」
父はぶつくさ言いながら、VHSをDVDにダビングする方法を検索し始めた。私もとりあえずポテチを開け、ほとんど手癖でiPhoneを手に取った。顔認証に失敗して、パスコードで開けた。
「iPhoneの顔認証ってさ、化粧した顔で登録するとスッピンで反応しないし、スッピンの顔登録すると化粧した時反応しないんだよね」
私は今、風呂上りのドスッピンである。
「そんな時のオバQ」
「確かにスッピンの時にも化粧した時にも似てるわぁ~ってバカヤロウ」
陽くんの握手会とコンサートについてツイッターにしたためていく。忘れないうちにできるだけ詳しく。ツイート十個くらい連投した。
今回は初めての仙台イベントだったが、陽くんのコンサートや舞台はほとんどが東京である。独身実家暮らしの経済力を存分に活かしてしょっちゅう東京まで繰り出していたが、これからはそうもいかなくなるだろう。距離的にも、家計的にも。
「えーっと、なんつったけ? その……俳優?」
定年後の父はよく喋るようになった。サラリーマン時代の父はいつも帰りが遅かったので、平日なんかは寝る前にせいぜい二言三言交わして終わりだった。
「新堂陽くん」
「そうそれ。よく許してくれたな。俳優の追っかけなんて」
いや、定年後というよりは……。
「そのへんは理解ある人だから。何たって向こうは芦屋怜南の追っかけやってるもん、十年くらい」
芦屋怜南は五歳の時に出演したドラマで一世を風靡した天才子役である。今は高校生なので、子役を卒業して女優だ。
「……十年?」
「そ。怜南ちゃんが幼稚園のころから。握手会行ったりハイタッチ会行ったり、直筆サイン入りポスターも持ってる。先月は怜南ちゃんの映画の撮影にエキストラで参加してた」
「それはやべぇ。結婚許したの間違ったかもしれん」
「許可もらって結婚するわけじゃないし」
婚姻届を出す日も、住む場所も、結婚式は挙げないということも、向こうで転職することも、全部決めてから父には彼氏を紹介した。事後報告のつもりの挨拶だったので、許可なんか求めた覚えはない。
明後日、私は福岡へ行く。その足で役所へ行き、掛川恵子改め、山田恵子となる。
「良かったな、共通の趣味がある人見つかって。このまま一人寂しくタコの干物みたいなババアになるんじゃねぇかって心配してた」
「ホントに。陽くんのおかげで人生楽しくなった」
自分が俳優の追っかけをしていなかったら、芦屋怜南の追っかけしている男なんかとても理解できなかったに違いない。「ロリコンやべぇ。キモイ」で一線を引いて、それ以上深く彼を知ろうともしなかっただろう。
彼――山田光一は大学時代のサークルの先輩である。最初は特に仲が良いわけではなかったが、追っかけネタをきっかけに意気投合した。イベントの席の狙い目として「できるだけ前の席が望ましいのは当然として、場合によっては多少後列に下がってでも通路側を取りたい」と教えてくれた。前の人の頭でステージが見えにくいことがあるが、通路側ならステージまで視界が開けるからだという。
「あの時、お母さんと一緒にドラマ観てて良かった」
中学生の時。母がいなくなるなんて夢にも思っていなかったあの時。一緒に観たドラマが私を新堂陽の沼に叩き込み、新堂陽のおかげで結婚相手が見つかった。つまり、人生の伴侶に出会うことができたのは母のおかげなのである。
「そんなんでお礼言われても複雑だよなぁ?」
父は、母の写真に微笑みかけた。
「どう取り繕っても、実体はただの追っかけだし。同じ舞台何回も観に行くんだぞコイツ。金の無駄だわ」
「いーじゃん。舞台は生もの。同じ公演でも回ごとに違うの!」
写真の中の母は、いつもより笑っているように見えた。
「お前今、写真の中のお母さんいつもより笑って見えるとか思ってねぇだろうな。そういうキラキラなやつ似合わねぇから止めとけ。普通にホラーだわ」
ホントこいつ、性格ひん曲がってる。
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