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「え? 何?」
朝の情報番組を観ている父が何か言ったようだが、化粧中でよく聞いていなかった。鼻の下にもチークを入れると鼻と口の距離が近く見えるらしいので試しているのだが、鏡には、鼻をかみ過ぎて荒れた人が映っていた。
「お前何座だっけ?」
どうやら朝の占いらしい。占いなんて普段気にしないくせによほど話題が欲しいのか。
「水瓶座」
「うわ、お前も水瓶座なのかよ。山羊座に滑り込んどけよ」
「黙れ尿瓶座」
私は一月二十日生まれなので水瓶座の初日である。二月十四日生まれの父も水瓶座、じゃなくて尿瓶座だ。
「当たりが強い。これは鬼嫁になる」
と、父は怖いものを見るように目を眇めた。
「ごめん便座」
「今日の水瓶座、六位だって」
「中途半端だね。最下位の方がまだネタになるわ」
私はキャリーバッグを玄関に運んだ。
「んじゃ」
「おう」
「行ってきます」
「ああ」
「酒ばっか飲まないで」
「ん」
「脂っこい物ばっか食べないで」
「はいはい」
「ウンコはちゃんとトイレでやって」
「昨日もついお風呂場で……って俺はボケ老人じゃねぇわ。まだ」
ああ。
言葉って便利なのに。厭味ならいくらでも出てくるのに。本当に言いたいことを伝えるには便利さが全然足りない。
ドアを開けた。晴天だ。
「いい天気だなぁ。ちゃんと汗拭きシート持ってけよ?」
父は勝手に人のショルダーバッグを開けて汗拭きシートを突っ込んできた。
「誰が茹でダコだ。ありがたくもらってくけど」
それじゃ、と私は玄関から外へ踏み出した。ちらっと振り返ると、父はハエでも追い払うようにシッシッとしていた。不器用で、ぶっきらぼうな人だ。
キャリーバッグを引いて、ずんずんと道を歩いた。振り返らない。振り返らない。今生の別れみたいな大げさな話ではない。ちょっと遠くの県へ家庭を築きに行くだけ。遠足みたいなもんよ。
歩いていると顔の周りにコバエが一匹ブンブン飛んでいるのに気付いた。いつぞやのアセロラ化粧水が脳裏をよぎった。今はというと、桃のいい香りのするヘアコロンを付けている。
マジでハエを追い払っていたのかー!
顔の周りにハエを従えて嫁に行く我が子を見て、父は何を思っていたのだろう。
やべぇ、早く光一に話したい。
私は一人笑いを堪えながら、青空の下、汗だくでキャリーを引いた。
Fin.
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