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再び窓を見ると、空の曇り具合も和らいで、月が顔を出していた。
鞄を力強く肩にかけ直す。そろそろ帰ろうか。
さっきの曇天を見ていると不安がよぎるが、また降っても駆け足で何とかなるだろ。多少降られたところでそれがどうした。
なんせ僕には楽しみがある。
「ムサシヅカ君、確か家遠かっただろ。良かったら折り畳み傘使っていいよ。俺予備持ってるから」
思わぬ救いの手に少し驚く。いつもの雰囲気に戻ったタケナカさんが、自分のロッカーからさっと紺色の傘を出してきていた。
仕事では本当に気が回る。こういう事が家族にもできていたらきっと、と思いかけて、いやいや人が首を突っ込むもんじゃない、とかき消し、「ありがとうございます」ありがたくお借りする。
カレンダーの角度を直しながらタケナカさんはしみじみ呟いた。
「ふーん、新・七夕は10月10日かあー」土曜の七夕だな、と一人楽し気に笑う。丑の日と掛けているのだろう。
「えっ…、特異日って文化の日じゃないんすか?」
「えっ?」
ぽかんとする彼を放置して、お疲れさまでしたーと部屋を出ていく。
ジェネレーション・ギャップはそうそう越えられるもんじゃないし、無理に越えるもんでもない。
紺色の傘を右手に廊下を歩く。
そろそろ出口、というところで後方からスライドのドアをすごい勢いで開けて叫んでくるタケナカさん。
「なあ!きみの願い聞くの忘れた!今度教えてくれよな!!」
よな…よな…!と狭い廊下をこだまする声。
「……タケナカさんてば、うるさいよー」
隣の部屋のドアが開き、イヌカイさんが笑いながらから顔を出す。ゆるりとしたウェービー・ヘアの彼女は、仕事は遅いが丁寧なんだ、とタケナカさんが評していた。
「ごめんごめん!」細い手足を上下させひょうきんに謝るタケナカさん。
「もう、分かってるんだか……。あ、ムサシヅカくん、遅くまでおつかれさま」ドアの隙間から苦笑すると、イヌカイさんはそのままいつものにこやかさでひらりと手を振った。
僕はちょっとだけ振り返って一礼する。
重い非常口を開けると、雨上がり特有のむわっとした空気が顔をなぜてくる。しっとりとした商店街が自動車のライトを浴びて光っている。
僕の、お願い――。
ガチャでSSRのあの子を召喚することでした。さっきまでは。
やっぱり、もうちょっとここで頑張ってみるか。そして、10月10日にはタケナカさんに同じ駄洒落を出題してやろう、そうしよう。
スマホをポケットに眠らせたまま、足取り軽く夜の街に踏み出した僕の頭上では、ちかちかと星が瞬き始めていた。
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